閉じる

新・読書日記26

デラルド・ウィン・スター『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』明石書店(2020)

■株式会社明石書店

公式HP:https://www.akashi.co.jp/

公式HP:https://twitter.com/akashishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日記

「頭では分かっていても」という言葉を少なからず人は使う。

そしてこの言葉は恐らく理性と情念が乖離している状態のときに使われる。

ダイエットがその典型と言える。

「毎日欠かさず運動をすれば痩せる」と頭では分かっていながらも、行動に移すのは容易ではない。

 

これが、人間が24時間ずっとは合理的では在りえない真理を端的についた例だと自分は考えている。

パラフレーズすると、理性(=合理性)という名の交感神経と、情念(=非合理性)という名の副交感神経が人間の行動原理を規定していると言える。

 

本書の102項では以下のように問いかけがなされる。

“(・・・)どうすれば私たちは、無意識的にレイシストであり、性差別主義者であり、異性愛主義者である善意の人々に、自らの行動や情念における「目に見えない」ものを可視化させることができるだろうか?” P102

  

本書は「マイクロアグレッション」をメインに扱っているが、この本はバイアスに関する本でもある。

「大衆はどうしようもない」「何も考えない人間が沢山いるから日本がダメになる」といった言説は、ネットに洪水のように溢れている。

このような物言いを自分もしてしまったことがあるが、どれだけ言っても状況を変える言葉だとは思えない。

俯瞰してみれば、大衆論は日本人論などもバイアスに満ちている。

「あれがダメ、これがダメ」で言論空間を満たすのではなく、生産的な問いかけ、誰も持ち合わせていない視点からの問いかけで満たさないといけない。

 

だから「可視化」の重要性について、自分は大いに同意する。

しかしその作業には必ず困難な壁が立ちはだかる。

 

今日は休み明けで思考力に難が有ったのか、不完全燃焼で、なにかしこりのようなものを心に残しながら本を閉じ店を出た。

前回にも、他の記事にも何回も書いたように、大局的に見れば世の中が決定論的に動いているように自分には見えてくる。

 

ルネ・ジラールの模倣理論について自分は詳しくないが、何事も模倣の連鎖でことが進んでいるとすら思えてくる。

言うまでもなく、習慣や慣習、文化は歴史の連続性によって形成されている。どこにオリジナリティがあるのだというのだろうか。仮にあったとしても、生物学でいう「突然変異」のようなもので、遺伝的な制約のようなものからは免れえない。

 

マイクロアグレッションはその当然の帰結としての「副産物」のようなものだと自分には思えた。

「頭では分かっている」が、時にはバイアスをおかすことは、人間である以上必ず起きる。

人間は合理的では在りえず、合理的でなくなったときにコミュニケーションはねじれ始めるのである。

 

『啓蒙の弁証法』についても、自分はまだまだ無知なところが多いが、理性には限界があるという主張には大いに賛同できるし、今の自分はそれが当然だと考えている。

そうなってくると、ロゴス主義は崩れ落ち、パトス(情念)に賭ける道を模索しなければならなくなる。

勿論、理性的である必要性までを否定するつもりはない。限界があるということ、つまりマイクロアグレッションやバイアスがゼロになることはあり得ないということである。

 

自分は哲学上の難問にぶち当たると思考が止まり、文学や芸術に関心が移っていく。

そして文学から拾い上げた問いかけと対峙するとき、また理性に戻る。

そして限界があると文学に逃げる。この繰り返しが多い。

 

哲学と文学が交感神経と副交感神経のように交代を繰り返す。

この機械的な運動に自分は少々の嫌気を感じたわけであった。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free