■株式会社青土社
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日記
フランクル『虚無感について』のつづきを読む。
250項まで読み進める。
フランクルはサルトル『存在と無』から何を教訓とすべきか語る。
20世紀は科学の勃興の時代。
脳科学、生物学、心理学など、あらゆる方面から人間を説明する試みが行われた。
非人道的な人体実験や、倫理性に欠ける心理学の実験なども行われた。
現象を単一の要素から説明しようとする「還元主義」こそ今日のニヒリズムであるとフランクルは語る。
加えて、人間は常に自分自身を規定する存在であるとフランクルは語る。
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今日はカフカ『城』を軽く立ち読みしてみた。(分厚いので購入する気は失せた)
あらすじの欄を見ると、『城』は、職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿について抉り出す、とある。
個人的な解釈では、職業とは人間のアイデンティティでもある一方、今日ではある程度個人を超えたものともなっている。(人間性よりも「職」が先に人間を判断する材料となっている場合において)
というのも、職業は信用にかかわる問題にとどまらず、資本主義化されたあらゆる領域において人間の存在を規定するものとなっている。
このブログにおいて幾度となく書いてきたので詳細は割愛。
ただ、一方でフランクルは「どんな状況にも意味がある」というように、この状況が良いかどうかを判定する意味はないと思われる。
人間には環境や遺伝を超えるものがある。フランクルはそのように語る。
不毛な議論や思想を学ぶよりも、フランクルの哲学がしっくりと来る今日の読書体験であった。
つづく
公開日2022-05-18