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読書日記443

アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ『私はゼブラ』白水社 (2020年)

■株式会社白水社

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池田晶子『オン!埴谷雄高との形而上学対話』講談社 (1995)

■株式会社講談社

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日記

アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ『私はゼブラ』のつづきと、

池田晶子『オン!埴谷雄高との形而上学対話』のつづきを読む。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/15/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98441/
https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/11/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98394/

  

この二つの本には何らかの共通点があるようにみえる。

『私はゼブラ』の「文学至上主義」という言葉はやや極端にみえるが、「自分の力で考え、世界を斬り込む」という点において、埴谷氏と池田氏の基本的な姿勢は変わらないのではないだろうか。

自分で考えるという表現では足りないかもしれない。

「難解な本」には二種類あると私は見ている。

ひとつは、自分で考えることによってとことん突き詰めた本の類い。

池田氏と埴谷氏は同じことを語る。自分でしっかりと考えている人にとってはヘーゲルのような難解な哲学も簡単に頭に入ってくるのだという。

頭の良さではなく、単に気質の問題だという。

もうひとつは、敢えて難しくしている類い。

これは様々な理由によってこのような形態となり得る。

論文として提出しなければならない場合、表現は自ずと形式的になる。

全てがそうとは言えないが、敢えて難しく表現しているようにみえる書物は数多くある。

上野千鶴子氏が指摘していたように、そういう文章は書き手側の能力不足である。

自分であまり考えることなしに、短絡的に解釈して論文から文章を引用しているような書物は少なくないのではないだろうか。

こういう手のものは自分でしっかりと考える側の人間からみえれば簡単に分かるみたいである。

自分で考える。

どういう営みか。

やはり基本的なことはソクラテスから教われば良いのだろうか。

つづく

公開日2022-05-27

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