■株式会社人文書院
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日記
つづきを読み進めた。
最近は「家畜化」という言葉が人文書に登場する機会が増えている。
例えばハヤカワ新書には『人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造』というタイトルの本が出ている。
リチャード・ランガムの本のキーワードも「自己家畜化」であった。
しかし、今日『動物の開放』の第三章を読んでいくうちに、自分は違和感を覚えた。
「家畜」という言葉が人間に使われる時の意味と、動物に使われる時の意味はまるで違う。
人間の場合、「飼いならされる」程度の意味でしかない。
しかし動物の「家畜」の実態は、あまりにかけ離れている。「飼いならされる」どころではない。
第三章は工場の現場で何が起きているか延々と言及されていく。
“ブロイラー鶏は七週齢になったときに殺される(鶏の自然な寿命は約七年である)。” P132
資本主義なので、家畜にされる動物は、完全に「商品」として扱われる。
そして、いかに最小のコストで最大の利益を生み出すかについて、ビジネスは動物の命のことをほとんど考慮せず徹底される。例えば雄のひよこは商業的に使い物にならないのですりつぶされるという、衝撃的なことが書かれている。
人間も転職市場では「商品」なのではあるが、命までは奪われない。ミンチにされることもない。
この点において、「家畜」という言葉は人間と動物で使われる意味合いが異なってくる。
“(・・・)研究者たちは養鶏農民が鶏舎で過ごす時間をできるだけ短くし、鶏舎に入るときにはレマピレータ [ 人工呼吸器 ] をつけるように警告した。” P138
本書は1975年に初刊行されているので現代は一定程度の改善が施されているかもしれないが、養鶏所の環境がいかに劣悪なものか、事実が延々と書かれていた。
動物はストレスで共食いをしないように角をもぎとられたり、デビーキング(クチバシの切断)が施される。
傷つけ合いをされたら商品の価値が下がったり全体の利益が下がるということである。
そのためには動物の苦痛は無視される。そういうことが延々と書かれていた。
人工呼吸器の件については、あまりに養鶏所の空気が劣悪なので人間にも害が及ぼすという内容であった。
また、ストレスを軽減させるために、養鶏所の明かりを暗くしているといったことも書かれていた。
他には、すぐに成長させてすぐに製品にするため、人間でいえばおそらく10代ほどの年齢で屠殺されるという、惨い現実が書かれていた。
動物と倫理のことは長い間考えてこなかったので、この本は絶望感までは与えないにせよ、なにか自分に対して問いを突きつけられているような、異様なものを感じさせられた。だからといって明日から鶏肉が食べるのをやめようだとか、ベジタリアンになろうなどとは思わないが、ヴィーガンの活動家に対する見方が少しは変わったように思う。
何も調べもしないでヴィーガンを非難する人間がネット上に多く散見されるが(動物実験とその貢献について、医療の発展と寿命の関係について彼らは本当に真実を知っているだろうか疑問である)、無知は罪だと改めて感じさせられる。動物実験の無益性については新・読書日記48を参照されたい。
つづく