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読書日記677

     ジル・ドゥルーズ『記号と事件: 1972-1990年の対話』河出文庫(2010)

■株式会社河出書房新社

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日記

「絶対的な善はない」

ドゥルーズが語った。

やはりそうきたか。

「哲学とは概念の創造をすること」

池田晶子氏の言う通りで、ポスト構造主義は本来の哲学的な営みからはかけはなれている。

善という言葉、悪という言葉が何故分かれているのか。

もはやそのような根源的な問いは忘れ去られている。

「私たちは哲学史に虐殺されてきた最後の世代」

哲学を語るということは、誰が何を考えたのか、それについて貴方はどう思うのか。

そういうことなのだという。

そしてとどめは「ヘーゲルが嫌い」という発言であった。

見事に池田晶子氏と反比例している印象を抱いた。

ジル・ドゥルーズとはそういう人物なのだと思った。

(あくまで「今日の」個人の感想)

哲学というよりかは批評である。

批評理論のコーナーが書店にあるように、厳密には哲学ではない所以ではないだろうか。

「哲学するには現代思想を読む必要はない。」

池田晶子氏はそう語っていた。

批評家になりたいのであればドゥルーズを読むことには意味があるとは思う。

なんのために本を読むのか。

自分に問いかけたい。

結局、自分もこのような本にとりつかれている向きがあるので、自分は哲学など興味がないのでは、という捉え方もできる。

ドゥルーズは読書には二通りあることをのべている。

本には固定された「シニフィエ」として意味が存在し、それを究明する読み方。

もう一方は、本の意味を捉えることにこだわらず、流動性のある世の中のひとつの産物として捉える読み方。

個人的には、流動性あるなかの普遍性に興味がある。

つづく

公開日2022/9/16

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