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デヴィット・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』柏書房 (2012) 読了

   デヴィット・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』柏書房 (2012)

■柏書房株式会社

公式HP:https://www.kashiwashobo.co.jp/

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/kashiwashobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

つづきをよみおえた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/07/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98934/

   

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感想

電子書籍の話や情報社会がもたらす弊害について語られた。

印象的な話としては、著作権や検閲をめぐる問題(Amazonは一時ジョージ・オーウェル『一九八四』と『動物農場』をKindleから削除した)に関して、昔と同じようなことが起きているという指摘があったことであった。

特段、これに関してはとくに何も意見を言うつもりはないが、Kindleは「ハード」、書籍は「ソフト」という側面である限り、所有という観点からすれば紙のほうが優れているという点は明らかである。(いきなり削除されたらたまったものではない)

・・・

TwitterやInstagramなど、あらゆるサービスが過剰となることによって人々はスマホに釘付けになる。いわゆる「注意散漫」というものはたしかに、今日電車などの交通機関を利用すれば実感できるものではある。

本書ではこの話と脳の構造について語られていた。

もともと人類は注意散漫になるようにできていて、むしろ注意力が無ければ野生動物に殺されてしまう。これは歴史的には自然なことだと、そしてむしろ読書のように「集中」するようになったのはつい最近のことだ、と。

確かにそうである。

そして実際、人々が注意散漫になったところで思索に興味ない人はそれでいいのだろう。スマホがなくとも注意散漫であったのかもしれない。

しかし個人的には、これはテクノロジーがもたらした副作用のようなものだと解釈した。

交通機関が発達し、人々が家から遠い場所で働くようになった。

交通機関という「システム」のなかに組み込まれざるを得ない構造なのである。

そしてそのシステムのなかにいる限り、自由は制限される。電車で自由に振る舞うことは難しい。よって「退屈」になり、退屈を回避するためにスマホなどを利用する。

それを識者は「注意散漫」だと指摘する。

厳密にはその繋がりというものはないように見える。これはテクノロジーを批判するためにわざわざ場違いな理屈を引っ張ってきた「こじつけ」でもあるかもしれない。

読書をする理由は人それぞれである。

しかし、読書という行為をテクノロジー批判の材料として援用すべきではない。

公開日2023/2/16

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