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つづきをよみおえた。
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感想
ひとまずじっくり、最後まで読み通すことを第一に考え、全体的な流れや本書の全体像を把握することに努めた。
結論としては全く理解できなかったというわけでもなく、一般向けの本であることもあり十分に読む意義のあった読書時間だったと感じている。
感想を書き残していく。
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個人的に最も関心の高かったトピックは「なぜ美学と倫理がセットで語られるのか」であった。
本書を読む前に考えていたこととしては、海や花(=自然)が誰にとっても美しい(もしくは崇高)という「普遍性」のなかに、普遍的な「価値」が「なんらかの法則によって存在しているだろう」という直感があった。
そしてその法則がマクロ的には道徳、ミクロ的には倫理と近似しているだろうと個人的には思われたのである。
(作家池田晶子いわく、道徳は社会に関すること、倫理は個人に関することである)
つまり、直感としては美学と倫理になんらかの接合点があると感じていたが、これが「学術的」にはどのように位置付けられているのかよく分からなかったために、こういったものを読んでみることにしたのであった。
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結論(美と倫理はなぜセットで語られるのか)から書くと(正直なところ本書を短く要約することは不可能ではあるが)、カントは(自然界を機械論的な見方と目的論的な見方に分けたうえで)人間だけが自身に目的を設定する存在であるとした。
「美」もまた無目的に(=誰かに命令されるわけではなく)合目的性(前々回の記事あたりに合目的性の定義を記載)を持つ。
人間は神にはなれないにせよ、自然界において唯一「美」に近づける存在であり得る。(何故ならば、人間だけが目的の一箇の体系をつくりあげることができる、とカントは述べた。)
従って、倫理とは本書の文脈に則せば「崇高な存在へのみちすじ」という位置付けであり、それが「美(のもつ性質、法則)」と近似している。
ゆえに本書のタイトルが「美と倫理のはざまで」になっているのである。
(なぜ「はざま」なのかを説明することはかなり長い文章を書かなければならないと思われるので割愛。気になる方はご拝読を)
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カントはスピノザを認めてはいても、無神論的な立場は肯定しなかったとされる。
よってカント的な倫理観は神学とセットである。(本書では倫理神学と書いてある。)
これは現代人からすればやや非現実的な見解であるかもしれない。
しかしながら、宗教の必要性の是非は問わずとも、ニュートンを始め、人間の偉大な仕事は信仰心で成立していたことを無視することはナンセンスに思われる。
神なき現在、人間は何によって日々活動をしているのかといえば、個人的な、もしくは利他的な目標であったり信念であったりする。
それらがどのように形成されていくのかは各々の人生観次第ではあるだろうが、少なくとも美学や倫理は誰にとっても、各々の生き方になんらかのヒントを与え得ることはたしかである。
公開日2023/3/13
関連図書
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