■学校法人玉川大学
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その他数冊
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日記
優先順位としてはまず『悲の器』を早めに読みきりたいので今日は300項までなんとか読み進めた。
吉本隆明は高橋和巳文学を「高度なインテリ向けの大衆小説」と言ったそうであるが、『悲の器』はとくにその特徴が出ているように感じる。
主人公が法学部教授という設定であり、内容は法哲学の解説書のように深い考察、思索が展開されていくのでこんなものがすらすら読めるはずはない。
ゆえに、今日は300項まで辿り着いた時には疲れはててしまった。
・・・
そんななか、なんとか同時読みで集中力の途切れを回避した。
途中、意識が飛ぶこともあったがいつものようにページは飛ばさずにショーペンハウアーを読み進めた。
私の解釈が正しいとは思わないが、30ページくらいまではわりと一般的ですらすら読めるように感じた。
ショーペンハウアーの言う直観は「判断力」のことを指している。
直観という抽象的でよくわからない概念は、ショーペンハウアー的な表現で言えば「悟性が結果から原因へと移ることによって立ち現れる世界のこと」である。
ざっくりいうと、要するに知覚自体は感覚であって、その感覚を通して理性が「判断」するわけである。(暑いから服を脱ぐ等)
服を脱いだ「結果」は判断が「原因」である。つまりはそういうことである。
・・・
福田恆存と矢内原伊作(哲学者)は文学と政治について語る。
冒頭はマルクス主義について語られた。
ヒューマニズムは科学ではない、唯物史観はメタフィジックから生まれた、いやそうではないといった不毛な議論は読み飛ばし、政治と文学の関係性に関する深い議論に没頭した。
矢内原が言うには、今まで(おそらく明治時代)の文学者は政治に無関心でいすぎたのだという。
間接的に文学作品が「役に立たない」ものだという論調であった。
以降、福田恆存とばちばち議論し合う。
人生を、社会を問う文学というものはドストエフスキーやその他数多くの文学者によって生み出されていたが、日本の文学は控えめに言ってもそのような偉大な作品は多くはないだろう。
読んでいくうちにどうやらそれはまず背景の違いとして、ヨーロッパの個人主義と自意識が関係しているみたいであったが詳しくは分かりかねる。
矢内原は、日本の文学はこのままでいいのかといった問題意識を強く持っているように感じた。
福田恆存もその考えに共感を示しつつも、文学の限界というものを指摘する。
福田恆存がいうにはリアリズムというものは当時既に行き詰まりを迎えていたのだという。
・・・
さて、ここまで振り返ってみて、高橋和巳文学というものは「戦前/戦後」という時代の大転換にどういう問いを突き出したのだろうか。
彼は何を考え、何を変えようとしたのか、どう生きようとしたのか。
令和の時代を生きる私は彼らから何を引き継げばいいのか。
これはやはりまず作品を読まなければ分からない。
公開日2023/2/22