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読書日記947

     高橋和巳『新編 文学の責任』講談社学芸文庫 (1995)

■株式会社講談社

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その他数冊

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日記

高橋和巳の文章はモーリス・ブランショのように謎めいていて難解である。

文章をじっくり読んでいる時でさえ、いつまでも意味が着地しない。分かりやすい文章は区切りがハッキリしていて意味が頭に入ってくるものであるが、高橋和巳の文章は句読点がしっかりと機能している時でさえも非常に分かりずらい。

・・・

『文学の責任』は、「文学は何に対して責任があるか」という、あまりにも大きすぎる問いが高橋和巳の練磨された知性によって突き詰められていく。

本書を読み、ネットで調べたところから推察されるのは、昔はおそらく、今と違って雑誌ではなく新聞で多くの小説が読まれた。

従って、小説は必然的に新聞が持つ大衆性、政治性に少なからず影響の下にあった。そして文学が持つ機能性。文学はただの事実報告ではあり得ず、これは非常に文章にしにくい特殊な面を持っている。このような観点から抽象的な考察が76ページまでひたすら展開されていく。端的な感想としては先程書いたとおり、モーリス・ブランショのような難解な表現が多用されるゆえに、1,2時間読んだところで吸収できるものではない。

・・・

『我が心は石にあらず』は200項まで読み進めた。今回は400項強の小説なので半分は読んだことになる。

読んでいて端的に思ったことは、当たり前ではあるが、設備投資の本質は労働時間の短縮ではなく労働者の削減ということであって、これが競争原理のうえで機能する以上、日本の労働時間はいつまでも長いのだろうと再度感じた。それが悪いとも良いとも思わない。ただそうなっているという理解にとどめた。

191項に、独創的な文章があったのでメモを取った。

“新しい考えを述べるために、若干の新語を新たに概念規定して用いることは許されても、文章の法則そのものを破壊してしまっては何もならない。ちょうどそのように、人間には、変化のためには恒常性の基盤が、闘うためにも休息の場が必要なのだ。” P191

もうひとつ、自分で思ったことを書き留めた。

「苦しみの源泉は恐らく、不正を成してまで得たいものがあるという、自己の不文律である」

公開日2023/2/27

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