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読書日記959

         熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』講談社(2017)

■株式会社講談社

公式HP:https://www.kodansha.co.jp/

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/07/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98958/

   

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日記

130項まで読み進めた。

美学と倫理学の結合点というものを見極めてみたいところであったが、カントの体系が想像以上に入り組んでおり、『判断力批判』だけにとどまらず『純粋理性批判』と『実践理性批判』の3つの主著を包括的に理解しなければならないことが理解できた。

ここまで読んだからには、理解は及ばないにせよ、ひとまず本を読み通すことを第一に考えたいと思うようになった。

結論から書くと、アランの「魂とは肉体を拒む何者か」という言葉と同じように、カントは倫理の法則を「自然に抗う超越論」として捉えていることが理解できた。

以下、今日読んだことを記憶に定着させるため、メモなどを書いていく。

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“趣味判断の原理そのものはア・プリオリなものでなければならない” P42

装飾→形式をつうじて適意を増大させるもの

“「美しいものとは、概念を欠いたまま必然的な適意の対象として認識されるものである” P45

“趣味判断は概念にではなく感情にもとづく”

→趣味判断は感情(快か不快か)に依存するため主観的

“趣味とは「直感的判断にぞくする、普遍妥当性に選択する」能力であって、「したがって社会的に判定する能力」のことである” P47

→極論、無人島で生活するような場合は社会もなにもないので、社会的というものは文化的ともいえる

“じっさいカントの説くところでは、趣味判断にア・プリオリにかかわる(つまり経験的なものではない)ことがらだけが、やがて「倫理的な感情」へとみとおしをひらくものとして重要なのだ” P49

“芸術は「美しい自然の模倣」であって、たとえそれが完全なものであったにせよ、芸術美はそのばあいたんに自然美として作動しているだけである。芸術とはさらに「意図的に私たちの適意をめざす」ものであるがゆえに、芸術美は、適意を産出するという目的によって意にかなうのであって「それ自体として」関心を惹きおこすものではない” P55

“自然美であるなら、これに対して、それは私たちに適意を換起するという意図を欠いている。自然はときに目的を欠いて合目的であって、意図をもつことなく、純粋に私たちの意にかなうもの、すなわち美しいものとなる” P55

自然が産み出す「美」には意図がないように見える。

→「無償の贈与」

・倫理は自然の法則から超越するもの

“倫理とは自然を超えるところになりたつものだからであり自然を超越することを可能にするものこそ自由である” P71

“欲求能力とは「世界における各種の自然原因」のひとつにほかならない。” P72

欲求能力 ≒ 本能

カントの考える「倫理」

“技術は自然を模倣する。技術は自然にもとづき、自然に寄りそうことによってのみ可能となる。技術にあって問題となるのはひとえに自然原因であり、それを裏うちする自然概念であって自由概念ではない。倫理とは、そしてカントにとって、端的に自然を超えるものである” P76

カント「美は関心を欠く」

→それが善いかどうか、そういう判断は要請されない

→にもかかわらず必然的に適意をなす

≒完全性

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仮言と定言の違いについて

「もし~ならば、・・・である」というかたちをとる判断⇒仮言的な判断

「もし~ならば、・・・せよ」というかたちをとる判断⇒仮言命法

「・・・である」⇒定言的

「・・・せよ」⇒定言命法

“行為がいまたんになにかべつのもののための手段として良いばあいなら、命法は仮言的である。いっぽう行為がそれ自体として善いと考えられ、かくてまたそれじしん理性に適合している意志において必然的であると考えられる、つまり意志の原理と考えられるとしてみよう。そのばあいには命法は定言的である。” P78

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“倫理を可能とする自由は、自然から切断されなければならない” P82

⇒倫理の超越性

“自由とはむしろ欲求の自然性から自由であることであり理性の与える法則にしたがうことだからである” P85

【 [自然⇔自由] ≒ [悟性⇔理性] 】

悟性・・・普遍的なものを認識する能力

理性・・・普遍的なものによって特殊なものを規定する能力

判断力・・・普遍的なもののもとに、特殊なものを包摂する能力

“判断力とは一般に、特殊なものを普遍的なもののもとにふくまれたものとして思考する能力のことである。普遍的なものが与えられているばあいなら、判断力は特殊なものをそのもとに包摂するのであって、規定的である。いっぽうひとえに特殊なものだけが与えられていて、その特殊なもののために判断力が普遍的なものを見いだすばあいには、判断力はたんに反省的である” P92

“崇高な対象は、とりあえずはむしろ「反目的的」なものである。それは構想力に対していわば「暴力的」なものをふくむ。崇高なものは、それにもかかわらず、あるいはそれゆえに「崇高である」と判断されるのである” P108

”反省的判断力のみが対象の合目的性を把促する” P112

⇒「あれはこうなっていて、そうなっているからこうなる,etc」⇒知識的な理解に基づいて行う判断は目的論的判断にすぎない

“「崇高であるのは、それを思考することができるだけでも、感覚のあらゆる尺度を凌駕しているこころの或る能力をあかすものである」はずである” P118

”美はかたちにやどる” P130

“美は形式をもち、崇高はかたちを超越するといわれている” P130

⇒美はかたちにやどり、崇高なものは形式を超える

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ひとまずカントは自然の法則とそれに「引きずられる」形で作用される内なる法則(=本能)の原理を明かさなければ、その原理と対立する(超越論的な性質をもつ)倫理の体系は掴めないと考えていたと私は察する。

また、『事実/価値二分法の崩壊』を150ページほど読んだ感想としては、倫理が「議論のための議論」の側面をもたざるを得ないアイロニーを私は見出した。

主観的なことであるからこそ厳密に理詰めでいかなければならないのだが、その厳密性というものが結局は仇となり、逆説的に「議論のための議論」となってしまう側面を否応なく感じさせられた。

倫理は主観的であるが、カントにいわせれば客観的な法則の裏返しのようなものなので、やはりどこかに法則は隠れているのだろうと今日は感じた。

つづく

公開日2023/3/11

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