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日記
大江健三郎が「文学の言葉」が現代社会に枯渇しているのではないか、これからはインターネットが時代を覆い、文学的な言葉、表現が淘汰されていくのではと、不安な胸中にあることが読み取れた。
大江健三郎賞は、そんな社会を切り開く若い作家を輩出し、延いてはその作品が海外へ翻訳されることを狙いとして創設されたことなどについて書かれていた。
同時代論集に込められた、なにか精神的なものを感じた自分は、読みづらく難しい文章でも耐え抜き、じっくりと読み込んだ。
しかし自分には「文学の言葉」という表現がいまいちピンと来ない。
たしかに池田晶子は「政治には政治の言葉がある」といったことを書いていた。そういう意味では「文学の言葉」も「文学には文学の言葉がある」ということなのだろう。
すると、では文学は何の営みなのか、という問いにたどり着く。
その問いにはテリー・イーグルトン『文学とは何か』がある程度答えになるだろう。
それは「人間とは何か」という問いに類似している。自分の記憶では、テリー・イーグルトンは精神分析、現象学、構造主義、ポスト構造主義の系譜を説明しながら、言語がいかに人間を規定するのかを語った。そしてその探求としての営み、その全体が文学だとした。
テリー・イーグルトンの定義が全てではないにせよ、自分も同じように感じていて、文学は人間の本質を探る営みというよりも、やはり言葉の本質を探る営みという定義のほうになびく。
しかしそれは普通、そういうものは哲学と呼ばれる。
それでいいのだろうか。
文学は何か、崇高な、美的で芸術的なものだと思われている節がないだろうか。
言葉の本質を括弧に入れ、あくまでも描写の仕方、技術というものに評価のウェイトを置いていないだろうか。
認知行動療法を受けた自分は、「認知の仕方」という表現に疑問を抱いた。
たしかに字義的にはそれで正しいだろう。
だが、それは言葉の深淵さというものを「認知の仕方」という表現によって覆い被せているのだと自分には思えてならない。
言葉の正しい使用の仕方が存在する、とまでは言わない。
しかし、自分はプラトン主義的な、「イデア」のようなものが言葉の奥底に隠れていることを疑わない。
そして、それを限界まで追求し続ける。
そういうものを自分は文学と呼びたい。
従って、哲学と文学は袂を分かつものではない。
・・・
小林秀雄が「三島君のこと」のなかで三島由紀夫の自決について語っていた。
三島由紀夫『金閣寺』に才能を感じながらも、自分とは気質がまるで違うと感じたそうである。
佐藤栄作は1970年の事件について、三島由紀夫を「正気とは思えない」と述べたそうである。
実際、三島由紀夫の問いかけになびいた人間はいなかっただろう。試みは「失敗」し、三島由紀夫は割腹した。
2023年、三島由紀夫がもし生きていたら100歳弱である。
すると、町にいる高齢者の多くは、実は自分とそこまで価値観が変わらないのかもしれないと思えてくる。
明治の前後で日本人の価値観が大きく動いたのかもしれない。
機会があれば、そういう前提でもって日本文学を読んでみたい。
公開日2023/12/30