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日記
『チャールズ・テイラーの思想』を読んでいるときにアイザイア・バーリンの自由論について書いてあったのを思い出した。
アイザイア・バーリンの定義によると、二種類の自由はざっくりまとめると以下になる。
・消極的自由・・・外部(国家など)の干渉の不在(~からの自由)
・積極的自由・・・各々が自制できること。判断力を備えていること。(~への自由)
~からの自由は受け身、~への自由は能動という意味で前者は消極的、後者は積極的であると言える。
テイラーはここで質的な区別を重視する。
しかしテイラーは、この自由に対する、質的区別をしないアプローチは受け入れがたいと主張する。P145 “(『チャールズ・テイラーの思想』)
“自由に関する考え方を説得的なものにするなら、特定の選択、関心、動機、そして目的が、その他のものよりも高次なものであり、より重要であり、より価値があり、あるいはより尊敬に値するということが認識されなければならない。” P145(『チャールズ・テイラーの思想』)
”意味のあるかたちで自由であることは、単にやりたいことができる以上のことを必要とする。” P146(『チャールズ・テイラーの思想』)
・・・
消極的自由には「それ自体で価値のあること=内在的価値を持った行為」が含まれるのか。このあたりは考えるポイントになるかもしれない。
『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』を読んでいて思うのは、論拠がやや科学に固執しているように見えるところである。(道徳心理学を採用するあたり、およそ心理学の偏重しているように思えなくもない)勿論科学の力は偉大ではあるが、「事実/価値」は水と油のような関係であるにもかかわらず(つまり、「事実」しか扱わない科学から「価値」を扱う道徳に応用しようとしている点)、そして、その法則はヒュームが提唱したにもかかわらず、『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』はヒューム「理性は情念の奴隷である」を支持している。妙な話ではないか。自分の読解力不足か。分からない。
とりあえずメモしようと思ったところはメモをとった。
“古代より、人間社会はミツバチの巣にたとえられてきた。これは雑なたとえにすぎないのか?ミツバチの女王を国家の王や女王にたとえるなら、それは雑にすぎる。巣やコロニーには支配者やボスはおらず、言ってみれば女王は卵巣にすぎない。” P320
「ミツバチスイッチ」という言葉が出てきた。これは「集団への志向性」ということを指すようである。
人間以外の生命と人間との集団的な行動の質的な違いについて説明する際にこの「ミツバチスイッチ」という言葉が使用されていた。
動物は群れをなすが、チンパンジーは「意図の共有」までは行わないと書かれていた。人間は「意図の共有」を行えるようになったために食物連鎖の頂点に立ったとされる。
なぜこのような話になったのか。集団と道徳について考える際に必要な概念のようである。
暴力的で荒い人間の集団と、そうではない理性的な人間の集団。どちらが勝利したのか。結論は後者であり、それは流行りの「自己家畜化」で説明がつくのだという。
“家畜化は一般に、成体になると消滅するはずの特徴を、死ぬまで保ち続けるよう働きかけるのだ。かくして(人間を含め)家畜化された動物は、野生の祖先に比べて穏やかで、社会性が高く、また子どものように見える。” P329
リチャード・ランガムの本にも似たようなことがいくつか書かれてる。
いまふりかえると、自己家畜化は道徳上、どんな意味を持つのか?
よんだあとに思い出そうとしてもなかなか思い出せないものである。
ひとつ言えるのは、今さまざまなハラスメントを排除しようとする動きが世界中で活発なことである。
これは男性の女性への攻撃性が淘汰されていくという文脈において、「自己家畜化」という概念に通ずるものがある。
著者は面白い問いかけを行う。「飲み水にオキシトシンを入れたら世界は平和になるのか?」
答えは「ノー」だという。
”つまりオキシトシンは、他集団とより効率的に競えるように、私たちをパートナーや自集団に結びつけてくれるのであって、人類一般にではない。” p362
集団のなかの成員は集団のなかでのみ利他的になるという理解でいいのだろうか。であれば、道徳というものは化学でいう「系」のなかでのみ完結する法則になるのだろうか。そう考えればたしかに道徳とは相対的なものだ。しかしその理解でいいのだろうか。
・・・
『正義の境界』
著者はヒューム「理性は情念の奴隷であるべき」や、「倫理学は空論だ」に反論する。自分はその筋を追ってみたいと考えた。
学部生の頃に著者はカントを読み込んでいたと書いてあった。であればカントの義務論を支持するのは自然な話だ。
今日は本書の全体的な流れを把握し、面白そうなところから読もうと思った。
感想などはまた次回以降に書いていきたい。
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『ゲーテからベンヤミンへ: ドイツ文学における主題と変奏』
ゲーテとの対話を読んで、自分はゲーテを今まで以上に崇高な人物だと思うようになった。
ひとつひとつの言葉に重みがある。エッカーマンはとても立派な仕事をしたと自分は思っている。
ドイツは歴史的な大失態どころか、破壊的で絶望的でさえあったが、なぜそうなってしまったのか、そういう点に関心がある。
メモ
ゲーテ「無限なものの中に歩み入ろうと思えば、ひたすら有限なものの中をあらゆる方向に向かって歩め」
“ゲーテが追い求めたのは、純粋性や洗練ではなく、内界外界を含みこんだ宇宙のありようであった。” p13
“ドイツ文学では、たんなる知性、たんなる感覚性、純粋に美的なもの、ひたすら現実的なもの、これらのものがそのままで肯定されることはまずありえない。つねに全体性への志向がぬぐいがたく認められるんである。ゲーテでも、ロマン派でもそうである。” p35
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『バーリンとロマン主義 (新基礎法学叢書13)』
チャールズ・テイラーやその他数冊の読書と平行して、それらの本の中で言及されていたバーリンの本も読みたくなった。
リベラリズムの話になるとたびたびバーリンが登場してくる。自分はバーリンの本が岩波文庫から出ているのを知ってはいたがあまり読めていない。また、全体像も背景もさっぱり分からないので本書にまず頼ることにした。特段難解な論文でもなく、一般人にも読み易いように思う。
メモ
バーリン「自由論における、価値多元論とリベラリズム、この二つは両立しない」
“しかし彼は、自由主義の敵から学ぶ必要性を説いている。すなわち、彼は『自由と裏切り』において、「自由はその支持者だけでなく批判者も必要とするということを、肝に銘じておかねばならない」と述べているのである。” (はしがきiiiより)
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久しぶりに高橋和巳の小説を読むことにした。今は家に様々な小説や文学が積読になってしまっているが、これは自らの内なる声に合わせて読んでいきたい。
つづく