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読書日記1272

      シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』ちくま学芸文庫 (2014)

■株式会社筑摩書房

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その他数冊

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日記

『工場日記』

メモ

“人間というものは、自分自身の価値について、外にあらわれたしるしを、つねに自分のために必要とする。” P174

・・・

この人には絶対にかなわないと思う学者・文筆家・実業家が6人ほどいる。

そのなかで具体的に本のなかで社会保障について言及しているのは3名。

2名は絶対的に反対。もう一名は博愛的で、ベーシックインカムを肯定している。

考え方の違いの根底にはなにがあるのか?

小室直樹に関しては、ロッキード事件の際に田中角栄について意見をを言ってくれ、と頼まれたとき、彼は否定と肯定の両方に立てるほどの理論をもっている、どちらに立てば良いかと言っていた。

結局のところ、理論を超越するのは信念でしかないのだろうか。

誰かにとっての悪は誰かにとっての善。誰かにとっての善は誰かにとっての悪。

いや、なにかおかしい。

著述家といえど、もしかすれば勉強不足の分野があるに違いない。

そのひとつとして、やはり自分は「決定論と自由の両立」について考えるべきだと思わずにはいられない。

・・・

『レヴィナス著作集 Ⅰ 』

メモ

”トルストイにあって本質的なものとは、人間の本性についての真理ではなく、生の非本来性、虚偽、うぬぼれにとっさに気づく者の情動である。感じること、あらゆる点における動物性。アンナ・カレーニナの自殺。純粋に衝動的な生の、そしてその袋小路の露呈。” P122

・・・

『原郷の森』

メモ

“西洋哲学主義と資本主義が密着したために、自己中心で生きることが、自我中心と誤ってとらえられた。” P98

・・・

『そうしないことはありえたか?』

つづきを読み進めた。

(読書日記1271に収録)

https://labo-dokusyofukurou.net/2024/08/06/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%981271/

    

前回までを整理する。

「決定論と自由は両立するか?」

というテーマについて論じられた。

帰結論証」によって「無力さの移行原理」が導かれた。

この原理の結論は、「決定論と自由は両立しない」であった。

前回はここで止まった。

果たして、本当に決定論と自由は両立しないのか?

まず「古典両立論」が紹介された。

これを提唱したのは哲学者G・E・ムーアだとされる。

具体例で考える。

:私は今朝コーヒーを飲むことができた。

実際にはコーヒーは飲まなかった。「ただ、家にはインスタントコーヒーがあったし、飲もうと思えば飲めたよ」と主張することで、決定論のなかにも自由があることを主張している。

次に、「できる」の意味をムーアは深堀する。

:私は今朝コーヒーを1杯飲むことができた

:私は今朝コーヒーを1000杯飲むことができた

ムーアは、前者は真で後者は偽となるような命題が存在することを示した。

これを一般化すると以下になる。

「できる」の条件文分析:行為者Sが行為Aをすることができるのは、反事実的条件文「もしSが行為Aをすることを選んだならば、Sは行為Aをするだろう」が真であるとき、かつそのときに限る。

ところが、この理論には欠陥があることが露呈する。

物理的には「できる」ことがあっても精神的には「できない」ことが世の中にはある。

「○○恐怖症」の例は分かりやすい。いきなり「バンジージャンプをやれ」と言われても、人間の能力的には可能だが、心の準備がないとき、または高所恐怖症で精神的に不可能な人もいるので、この「できる」には制限がかかることになる。

これを定式化することが困難であることがのちに判明する。

他にも欠陥が示された。

例えば、バスケットの3ポイントシュートくらい「できる」人も、失敗はつきものである。

“条件文分析は、この「できるはずの行為の失敗」という現象をうまく説明できないように思われる。” P117

そして致命的な欠陥が以下の例で示された。

:私は、セミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことができる

これをパラフレーズすると、

:私は、もしセミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことを選んだならば、そうしただろう

になる。

「できる」の条件文分析は、

:行為者Sが行為Aをすることができるのは、反事実的条件文「もしSが行為Aをすることを選んだならば、Sは行為Aをするだろう」が真であるとき、かつそのときに限る。

であった。

つまり、理論的には

「~を選ぶことを選ぶことを選ぶことを・・・・」とつづけて書くことができてしまう。

↓↓

:私は、セミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことを選ぶことができる

:私は、もしセミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことを選ぶことを選んだならば、そうしただろう

・・・

:私は、セミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことを選ぶことを選ぶことができる

:私は、もしセミを手で捕まえて追い出すことを選ぶことを選ぶことを選ぶことを選んだならば、そうしただろう

以上無限につづく。

この反例を示せず、古典両立論は1970年代に頓挫してしまったという。

しかし現代は両立論が復権の兆しをみせているという。

それが「傾向性両立論」というものであった。

ここからさきはまた長くなるのでいったんストップしたい。

つづく

公開日2024/1/24

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