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その他数冊
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日記
『私たちはどう生きるべきか』
400ページ手前まで読み進んだ。
通勤中やカフェで地道に読み続け、塵も積もれば400ページ。
いよいよ終盤で、明日には最後まで読みきりたい。
・・・
メモ
“カントによれば、「他者の運命へのあらゆる同情心」をなんとかなくして、もはやそうした性向にはつき動かされず、ただ義務感から行動するようになったとき、「初めてその行動は真の道徳的価値をもつ」のである。” P327
なにかの本で読んでわかったのは、現代の道徳哲学は「カントの義務論 VS 功利主義」という構図になっているということであった。
ピーター・シンガーの本によって、その中身が少しずつ理解できるようになってきた。
ピーター・シンガーの説明によれば、同情心や「助けたい」という「想い」から来る志向性というものは、道徳的価値に値しないということであった。
ひねくれた哲学者は、同情心から来る道徳心でさえも「それは相手が苦しんでいるのを見ている自分から解放されたいからそうするのである。つまり利己的である」といった説明をするが、後者の「助けたい」は道徳的なものだと言える。それでもカントは退ける。
いつの時代にも適用可能な普遍的道徳法則を備えた行いを「義務」として自ら課し、ただその掟にだけ沿って行動をする。
それがカント的な道徳である。ということが理解できた。
しかしピーター・シンガーは、その冷徹な側面を危険視する。
“カント的な道徳の立場は別の意味でも危険である。人間的な仁愛や同情心の導きがないと、強い義務感だけでは硬直した道徳的狂信につきすすんでしまう可能性がある。” P332
ピーター・シンガーはアイヒマンを例に出した。
アイヒマンの供述によれば、彼は自分の言葉でカント的な行動原理に従って動いたと述べたそうである。
その真偽は不明ではあるが、カントが誤解されて悪影響を与える可能性は否定できないと自分には思われた。
・・・
メモ
『言語・真理・論理』のA・J・エア
「原理上、真偽を検証する方法がなければ、どんな言明を有意味ではありえない」
⇒ピーター・シンガーによれば、この考え方はヒュームにもとづいているとされる。
“ヒュームは、すべての行為の理由は必ずや何らかの欲求か情念と関係しており、またそうでなければどんな理由も行動に影響をおよぼすことはできないと考えた。(・・・)もしヒュームの主張が正しいとすれば、「私はどう生きるべきか」という問いに答えるためには、「あなたは本当は何をしたいのか」とまず問い返さなければならない。” P342
メモ
ヘンリー・シジウィックの言葉
“「社会的な義務を私が果たしても、それは私のためにはならず、他人の得になるばかりだ」という古くからの不道徳的なパラドックスは、経験的な議論によっては完全には論破することはできない。(・・・)理性的な行為の完璧な理想をたてようとする人間の知性の長い苦戦は、敗北を避けられない運命にあるように思われる。” P344
(ピーター・シンガー)
“ゲシュタルト派の心理療法は、「道徳」が心理療法に変わっていく過程のあらましをこう書いている。「これは正しいことなのか、それとも間違ったことなのか」という問いは、「これは私の役に立つのか」という質問に変わる。これに対しては、個々人が自分自身の欲求に照らして答えなければならない。ここで注目してもらいたいのは、自己をこえた目的に価値を決める能力がこの人たちには欠けているということである。” P372
自分が心理学に興味を持ち始めた頃を思い出した。
ときに自分は心理療法の社会的意義を考察した。
自分には、心理療法は個人の価値観を重視する傾向にあると思われた。
価値を内的に求めがちであって、外的な価値はどこまで問われるのか?と考えたときに、心理療法の致命的な欠陥に気がついた自分は自然と政治哲学に向かったことを思い出した。
そのときによく読んだのは、アマルティア・センの『功利主義をのりこえて』であったと記憶している。
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『ソーシャルワークの哲学的基盤ー理論・思想・価値・倫理』
メモ
“(・・・)G.E.ムーアは、道徳的な善は直観によってのみ理解される、単純で、あいまいな性質のものであると主張した。” P66
・メタ倫理学の主流
認知主義ー非認知主義
認知主義・・・・道徳的概念において、正しいこととそうでないことを我々は知ることができると考える立場⇔非認知主義
認知主義は「直観主義(主観によってのみ知ることができる)ー自然主義(客観によってのみ知ることができる)」とわかれる。
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『道徳的な運:哲学論集一九七三~一九八○』
「カントの義務論VS功利主義」をすすめる論考となっているこの本に関心を抱いた。
メモ
“しかし、道徳が運の影響を受けないようにさせようという目標は失望させられる運命にある。この論点の最もよく知られている形態は、自由意志の議論に見られるように、道徳的傾向性というものを動機と意図の方向でどれだけ奥に位置づけようとも、道徳的傾向性もまた他のあらゆるものと同様に「条件づけられて」いるということである。” P35
人生の終盤に過去をふりかえるとき、そのとき後悔するかどうかは「成功」したかどうかに左右される。少し考えれば、自分で自分をふりかえるとき、当時の自分を「客観的」に捉えることの困難さがみえてくる。
判定者である自分が、既に「運」によって形成されているからである。
解説には以下のように説明されていた。
“(・・・)最終的な論点は、我々が自分の人生について後悔するとき、後悔する自分もまたその人生によって形成されているのであり、当初の熟慮がよいものであったかどうかではなく結果として成功しているかどうかを左右する、ということのようである。” P329
本書は端的に面白い。
どんどんすすめていきたい。
カントの義務論と功利主義の関係について少しずつ書けるようになったと実感でき、嬉しく感じる。
この論考を確率論や自由意志問題、格差問題などと接続させていくとまた面白い話が展開できるように思えた。
つづく
公開日2024/3/30