■株式会社中央公論新社
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日記
昨日読んだ『だから人は本を読む』の内容が残像のように頭に残り続けている。
「営利団体は営利を追求しなければいけない。非営利団体は影響を与えなければならない」といったことが書かれていた。
世の中のすべての組織が営利団体になればそれこそ究極のリバタリアニズムのような世界になり、後者の非営利団体がすべてを覆えばそれこそ社会主義に陥ってしまう。
こうやって極論めいたことを考えると、それぞれがそれぞれの役割を持っているのだなと改めて思う。
存在に理由はいらない。そんなことを考える一日であった。
文学も似たようなもので、サルトルは「飢えた20億人に文学は何ができるか」と問うことで文学の無益性について世に突きつけたのか、その真実は知らないが、例えばいろいろなサービスが世の中に存在するが、それを「どうでもいい」と思う人間にとっては一部のビジネスも無益なものだろうし、物事の捉え方は結局のところ千差万別ということにしていいのではないだろうか。
ゴンクールの日記(岩波文庫)に仲介業者、取次業者たちについて「彼らは何も生産しない」ということが書かれていた。
何をもって「無益」とするか、それは社会が決めるのではなく個人で決めるものだと思うことにした。
特段、そうすることで日々本を読む人間たちを「生産的」な側として描こうとしたいわけでもない。
自分は文学を通して言葉の深み、多様的な在り方を考えたいと思うに至る。それは、言葉の解釈というものがときにあまりに単純化されてしまい、薄っぺらなものとなってしまうこともあるからだ。これは前回の記事に書いた。
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『悪の華』
ボードレールは猫がとっても好きなんだと、読んでいてわかった。
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『完全版-若き日と文学と』
メモ
言葉が全てに先行する、と捉えること
“ところがそこで、小説家にとって空想の世界・想像の世界とは何か、という問いが出てくる。ぼくは、ほんとうの<小説家>は<言葉>というものを、現実と同じだけの重さで考えうる人間だと思う。いわば、現実よりも<言葉>のほうが先にあって、<人間としての現実>は、じつは<言葉>がつくってゆくんだというふうな確信がある人間が<小説家>なのだと思う。したがって、現実、あるいは政治、あるいはさまざまな戦争、飢餓という事実も、じつはそういうものが、<人間としての現実>であるためには、<言葉>がそれをかたちづくっていなければならぬ。<言葉>があって初めて、政治とか戦争とかが人間の価値として、世界のなかに入ってくる。” P50
利潤を追う企業、美的なものを追う芸術家との関係
“文学愛好者、あるいは文学が好きという素質の人間ていうのは、なるほど、ある美点もある。ただ、それとともに、別の意味で、財界人とか政治家とかいう者だって人生を見きわめたりなんかする能力をもっているんだ。だから、おたがいが、おたがいに反撥しあっていいわけなんだ、最初のうちはね。しかし結局は融合したほうが、より完全な視野がひらけるでしょ。だからぼくは、うぶな文学青年になったけど、もう何年かまえから少しずつ反対側の世界も知らなければと、意欲しているよ。” P53
“対応物があるからこそ、何かが生まれてくるんだね。” P57