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その他数冊
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日記
人はなんのために、何を読むか
昨日は仕事中のささいなことで精神的に参ってしまった。
これが睡眠でも取り除けず、嫌な予感がした。
たまらず、通勤中は『ドリアン・グレイの肖像』に没頭することにした。
わずか10分ほどだが、読み終わってスッキリした。ヘンリーの言葉に刺激されたのかもしれない。
文学的な表現は心の濁りを浄化する。理由は分からない。
“人間生活ーーーこれこそ研究に値する唯一ものもと彼には思われた、これに比べると、価値あるものなど他にはないに等しかった。苦痛と快楽の奇妙な坩堝のなかにある人生を眺めるとき、人はその顔にガラスの仮面を着けることもできず、また頭脳を感乱し、奇怪な空想といびつな夢想とで想像力を濁らせる硫黄ガスを防ぐわけにもいかないのだ。” P122-123
“魂と肉体、肉体と魂ーーーそれらは何と神秘的なことか!魂にも獣性があり、肉体にも霊的な瞬間がある。感覚も洗練され得るし、知性も堕落し得る。どこで肉欲の衝動がやみ、あるいはどこで霊的な衝動がはじまるのかを、誰が識別し得ようか?平凡な心理学者たちの恣意的な定義の何と浅薄なことか!しかも様々な心理学派の主張の優劣を決することは何と困難なことか!” P125
・・・
『1、2、3…無限大 新版』
この本を何回も書店で見かけては気になっていたが、ちょっと手が出にくいところがあったが、いっそ読んでしまえという気になったので読むことにした。
ひとつひとつの章で展開される話のスケールがあまりにも大きいため、一章を読むだけでも大きな満足が得られる。
今日は無限と濃度について深い話を読んだ。
整数の集合と偶数の集合とでは、直観では前者のほうが数が多そうにみえるが、そうではなく、ひとつひとつの数がそれぞれ対応し合うので大きさは変わらないということであった。
それに対し、整数の集合と1cmの直線に含まれる点の集合とでは、後者のほうが大きいという。
そのほかに、4次元の構造について読んでみた。3次元の立体が影になると2次元になる。従って、4次元の構造が影として投影されたものは3次元になる、という話は直感では理解できた。しかし、これに時間が加わるらしく、このあたりは混乱してしまった。
大学以降の数学は直感に反するものが多い印象がある。新しい発見の連続だ。
・・・
『人間的、あまりに人間的2』
“「意固地」とは何か?ーーー最短の道とは、可能な限り一直線な道ではなく、最も好便な嵐がわれわれの帆をはらませてくれる道である、ーーー船乗りの教えはこう語る。そしてこの教えに従わないこと、それが意固地というものだ。ここでは、性格の堅固さが愚かさによって汚されている。” P320
・・・
ついに自分は思想そのものへの疑いをもってしまった。
優れた思想家に必ずつきまとうパラドックスめいた現象を、自分は考えずにはいられなかった。
それと同時に、なんのために何を読むのか、という、半ば自虐めいた思考も展開させてみた。
前提として、思想には科学的な根拠がないので人々がそれに従う義理・義務はない、という空しい考えが世にはあることをここに据えておく。
どんなに優れた思想家が優れた本を出したとしても、それが理論である限りは「教条主義」を招き得ない。
その本を手にし、一生懸命最後まで読んで考え抜く人がいったい何%いるだろうか。
偉そうなことを書こうとしている自分でさえもカントの本を全部読めていない。
カントの出した結論をそのまま信じるのか、それとも批判の材料としてそこから応用させていくか。
普通の人間にできることは前者しかないように思えるのである。いや、単純化しすぎたかもしれない。
仮に前者から後者へと橋を建設しにかかっても、素人である以上、誤読、誤解、不理解の問題は必ずつきまとう。
つまり、世の中は偉大な思想家の複雑な理論を分解し、国民の胃で消化・吸収できるように手助けする人たちが求められる。それがいわゆるキュレーターと呼ばれる人間たちだ。しかし、いったいそんな人たちはどこにいるのだろうか。それらは「批評家」と呼ばれることもあるだろうが、実際のところ、そのキュレーターたるべき評論家でさえも難しい用語を乱打して読者を困らせてもいる。
すると、思想は「教条主義」的に広がるか、消化不能のまま書店(あるいは図書館)という言論のアリーナにとどまり続けるしかないのである。、
それでは不毛ではないか?
なんのために何を「書く」か。これを考えた時にこの問題が自分の頭の中をかけめぐる。
一度偉大な思想家の本を読んで「血肉」化し、自分の考えと混ぜ合わせて強化させる。ただ、それだと受け売りになるかもしれない。一度偉大な思想を疑うプロセスも要される。
読解⇒批判⇒血肉化
このプレセスを経て一段段階の高い意見をある程度言えるようになることを、自分は「回帰的展開」と呼びたい。
この作業は絶対的に孤独である。そうでなければならない。必ず自分だけで考える時間が要される。
しかし、そんなことをやる人間が読者層にどれだけいるだろうか。
こういうことを考えると話はやや政治的、経済的な方向へ行ってしまうが、それでもなんとか進めたい。
「回帰的展開」をビジネスとして展開させていくしかないのか?
それはおそらく不可能である。ここで「価値」という意味の多元性を自分は目の当たりにする。
政治家が「日本を前にすすめる」という時、実際に前に進む人はだれなのか?
それを問う。
・・・
偉大な思想家についてまわる、不可避の教条主義をどう超えるか。
批判をやめた人間は最後には「信じる」しかなくなるので思想が宗教になる。(マルクス主義のように)
そうでない人間は「啓蒙とは何か」という問いにいきつく。
しかしこれではカントの問いに戻ってしまう。アドルノの問いに戻ってしまう。(啓蒙の弁証法のように)
この問いが自分のなかで昇華するとき、それは芸術という形式になることもあれば、さらに洗練された理論という形式になることもあれば、政治の方向に向かうこと(オノラ・オニールのように)、政治の研究に向かうこともある。(ハーバーマスなど)
このあたりまでノートを書き進めて自分はようやく落ち着いた。
やることが少し鮮明になった。
つまり、文学的価値を伝えること。書くこと。考えること。