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新・読書日記163(読書日記1503)

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『無限の言語―初期評論集 (ボルヘス・コレクション)』国書刊行会(2001)

■株式会社国書刊行会

公式HP:https://www.kokusho.co.jp/np/index.html

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/KokushoKankokai?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

ジャック・リゴー『ジャック・リゴー遺稿集 (自殺総代理店ほか)』エディション・イレーヌ(2021)

■エディション・イレーヌ

公式HP:http://editions-irene.com/about.html

公式X(旧 Twitter ):不明

岡部 美香 (編集), 小野 文生 (編集)『教育学のパトス論的転回』東京大学出版会(2021)

■一般財団法人東京大学出版会

公式HP:https://www.utp.or.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/UT_Press?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

      オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』岩波文庫(2019)

■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho

その他数冊

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日記

一日を振り返ってみる。

今日も一日はカフェで読書がスタートした。マリオカートではスタートダッシュという技があるが、自分はスタート読書が土日の恒例行事となっている。

最近、しっくりくる座席が定まりつつある。いつもの同じスターバックスを5年ほど通っているにもかかわらず、ようやく落ち着いたとは。

朝はオスカー・ワイルドを読みつつボルヘスを読んだ。

『ドリアン・グレイの肖像』の時間の進み方が一気に加速した。明日か明後日には読み終わるのでそのときにまとめて感想を書きたい。

ボルヘスは正直なところ難解で、読んでいて読みづらさを感じる。しかし、どことなく深淵さを醸し出しているところが不気味であり魅力である。

  

メモ

(ジョイスについて語るボルヘス)

“変幻自在な彼の筆は、修辞の文彩のすべてを使いこなす。” P15

ジョイスといえば、『フィネガンズ・ウェイク』という作品が最近新訳で出ている。少し立ち読みしたが、これは絶対に時間がかかると思い、そっと本棚に戻した。

  

“空間と時間の隔絶を強調したものである距離と古代性は私たちの心を引くのだ。ノヴァーリスがすでにこの真実を語っており、シュペングラーも、かの有名な本の中で大がかりに論じている。私は、それと文学のかかわりを指摘しておきたい。まったく感動的なことなのである。二千五百年前にも人間が生きていたと考えるだけで私たちが重みを感じるのであれば、その人たちが詩を作っていたこと、世界を観察して、自分たちの重くはかない生の一部を軽快で長持ちすることばのなかにこめていたこと、そして、それらのことばが今なお長い運命を生き続けていることを知れば、なおさら感動を覚えずにはいられないではないか?” P192

  

ボルヘスが文学の存在理由を「運命の提示」にあると語っていて、その通りだとメモを書きたくなった。(本には書きこまない主義なので心のなかで呟くにとどめた。)

  

・・・

昼は何をしたか。まずは家に帰り昼食を食べた。

物価上昇はランチ代にも直撃している。学生のころは、松屋で300円あればカレーを食べられた記憶がある。

それが今では700円以上もする。ここまでくると、さすがに昼食は家で食べて浮いた分を書籍代にまわしたくなる。というよりも、そんな生活をしていたら本が買えなくなる。

  

昼寝をするほど疲れていなかったので、そのまままた外へ出た。次はドトールにいってしばらく『ドリアン・グレイの肖像』を読んだ。

メモ

“(・・・)どのような人生論も人生そのものと比べるなら、何ら重要ではないのと彼には思われたのである。行動や実地の試みから遊離したとき、知的な思索がすべてどれほど不毛なものになるかということを、彼は痛切に感じていたのだ。魂に劣らず、感覚もまた啓示すべきさまざまな霊的な秘義を宿していることを、彼は知っていた。” P273

  

オスカー・ワイルドの小説がどことなく哲学的で自分は好きである。フランス文学には芸術家が出てくる小説はごまんとあるが、自分にはワイルドが一番しっくりきている。フローベール『感情教育』、アンリ・ミュルジェール『ラ・ボエーム』は全体的に退屈な小説であったと記憶している。

  

さすがに2時間ずっと小説を読むほどの集中力はないので、『教育学のパトス論的転回』と平行して読んだ。一昨日、読書をする理由を、問いを自分自身に突きつけた。

読みたいから読む、半分正解で半分不正解。

読まなければいけないから読む、半分正解で半分不正解。

そこに本があるから、これもまた半分正解で半分不正解。

結論として、「文学的価値の探究」を続けること、それを伝えること、そこに辿り着いた。

その答え合わせをするつもりで『教育学のパトス論的転回』を読んだ。

  

メモ

“世界と自己に絶対的な根拠などないと認めること、あるいは、そうした根拠に関する自らの無知ないしは到達不可能性を認めざるを得ないことは、人間をニヒリスティックにする。従来、この種のニヒリズムから人間を救済するのに貢献してきたのは神話と宗教であった(scheler 1947 : 89)。” P182

  

“実際のところ、人間を取り囲む自然を理に適う仕方で認識することは、啓蒙の営みの基本である。ホルクハイマーとアドルノに即せば、そもそも啓蒙とは「捉えがたい脅威に充ちた自然」に取り囲まれている人間が自らの生存を図るために構想した、人間中心の色濃いプログラムであった。(ホルクハイマー・アドルノ、二〇〇七、六六 一七一項)。その最も古い形態は神話である(ホルクハイマー・アドルノ、二〇〇七、二八項)。” P185

  

このあたりを読み進めたあとはフーコーによるカントの人間学の話へと展開された。正直なところ、フーコーにはあまり詳しくないので吸収できるものはなかった。読み物としてそのまま字を追っているだけであった。

とりあえず分かったことといえば、カントはルソーにかなり影響を受けていたということである。

某著述家はルソーのことを、「現実を知らない理想主義者」とレッテルを貼り付けているように自分には見えたが、人間嫌いのカントを幾分か反省させたほどの力をルソーは持っていたということで、これは意外な話であった。ゲーテもルソーのことをこき下ろしていた記憶がある。

  

・・・

夕方はブックオフと新刊書店をめぐった。これはいつものルーティンのようなもので、うろうろまわった。

本を沢山バッグに入れることのデメリットは、とにかく狭い店内で他人に迷惑をかけることだ。

昨日もジュンク堂で他人のリュックにどかどか当たりまくった。舌打ちもされた。これは仕方がない。

だからそろそろ電子にしようかなと思う日もある。

電子のデメリットは、質感がないので本を読んでいる感覚がないことである。

これが自分には致命的で、本を読んでいて楽しくないと感じたときにはもう読書をやめてしまうのである。

  

そのあとはワイルドを読みつつ、リゴーの本を読んだ。

   

メモ

『ジャック・リゴー遺稿集 (自殺総代理店ほか)』

“1 笑いは阿保どもに固有のものだ。ルネ・デカルト” P107

  

“14 書物は、一つの行為でなければならない。” P108

  

“我々に残された、人生に対して軽蔑を表す方法はただ一つ、そいつを受け入れることだ。人生などわざわざ捨てるにも値しない。” P161

  

リゴーは誰よりも「睡眠」を愛する人間であった。

  

・・・

フランクル『死と愛』

メモ

“われわれの価値像は、われわれの世界像と同様に、常に世界のいわば一片あるいは一断面をわれわれに見せるに過ぎず、われわれは視野に拘束されている。” P46

  

“あらゆる具体的な当為がそこに帰せられるような全体性は、具体的なものの視野に縛られている人間には決して可視的にならないといえるかもしれない。” P47

  

今回のフランクルの本は以前にもまして哲学的である。

  

カントの義務論について今日も少し考えた。これが何故空論と言われてしまうのか、それは情動に対する考察が不足しているからではないか。

自分はヒュームとジョナサン・ハイトに大きく影響を受け、情動について考える必要性を感じていた。

ジュンク堂でこの考えを前に進める本を探した。今日はまだ読めていないが、ブックオフで他にもいろいろと考察に役に立ちそうな本を見かけたので明日はまた違う組み合わせで読んでみたい。

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