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新・読書日記166(読書日記1506)

         フリードリヒ・ニーチェ『反時代的考察』ちくま文庫(1993)

■株式会社筑摩書房

公式HP:https://www.chikumashobo.co.jp/

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     神谷 美恵子『生きがいについて (神谷美恵子コレクション)』みすず書房(2004)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/misuzu_shobo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

Twitterをやることで深い読み方をしている人たちと交流できるの素晴らしいことである。

また、自分のひとつの信念として、世の中の人々の視界に入りにくい本(書店の入り口からは遠い位置に置いてある科学書、人文書、心理学書など)を積極的に紹介し、優れた作品の価値について発信するというものがある。

ただ、見ていて思うのは、これは厳しいなという思いである。

幻冬舎の編集者たちが語っていたのは、今も昔も、そういう本を読む人は読む、そうでない人はそうでない。その総数はあまり変わらない、ということであった。

個人でできることは限られている。今後も古本屋や書店がつぶれていくのをじっと見ているしかない。

それでも自分で意義があると思うことは続ける。

  

丸山健二がこのことについて『真文学の夜明け』のなかで何回も訴えている。

内容の薄い本が世の中に溢れれば溢れるほど、長期的には本離れが加速し、しいては出版業界そのものが破滅に向かうというシナリオを自分も危惧している。

内容の薄い本というとやや過激な表現かもしれないが、読者に深い思考を促さない本のことを指す。

つまり、本に答えが書かれてしまっている本のことをいう。本当はそこから次へ一段階高い問いへと移行しなければならないが、例えば『大衆の反逆』の要約を読んで、「なるほど、今は大衆が政治を動かしているのか、ふむふむ」と、そこで問いが止まってしまう可能性が高い。実際には、本というものは完全には要約できないものである。長い文章は、必要だから必要な量で書かれているわけで、もうこれ以上削れない、という状態で書籍化されている。それを無理やり要約することは致命的な考察点を見逃す可能性が大だと自分はみている。

  

小説も似たような状況で、本当に価値のある本というものは一握りである。すぐにブックオフの390円コーナーに移動するものだから、ハードカバーの新刊を買う気にはなれない。安くなったら買おうと思うのは消費者としては当然である。

人文書は売れないから発行部数が少なく、従って希少性を持ちやすく、いつまでも高値を維持するというのはある意味この逆の現象だとは理解できるが、本当に感動した本を手放す人はそういないように自分には思われるのであるが、どうなのだろうか。

  

毎週毎週、様々な本屋に行って思うのは、ブックオフで2,3年経てば390円コーナー、110円から220円コーナーに置かれてしまう本が相当な割合で毎年毎年生産されているという実感である。

新刊の総数は昔よりも増えている。にもかかわらず売り上げは全盛期をとうに過ぎて、あとは電子次第である。電子が爆発的に売れればまだまだ出版会も息を吹き返すチャンスはある。

   

『反時代的考察』

メモ

“世には汝以外に誰も進みえない唯一の道がある。この道はどこへ行くのか?と問う勿れ、ひたすら進め。” P238

  

『生きがいについて (神谷美恵子コレクション)』

“人間はみな自分の生きていることに意味や価値を感じたい欲求があるのだ。人間のこうした欲求はどこから出て来たのであろう。おそらくそれは、知覚のようなそぼくな生体験そのもののなかにすでに意味や価値の判断が未分化な形でふくまれている、という事実と無関係であるまい。ホワイトヘッドのいうように、人間の知覚というものは必ず「解釈」を伴っており、またその解釈には過去や未来なで内在していると考えられるからである。” P75

 

カント倫理学が「空虚な理論」であると批判されているみたいであるが、それは理論のなかで「感情」が切り捨てられているからではないだろうか。

ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右に分かれるのか』を読んで、自分はいかに感情が無意識に、かつ集団心理のようにバイアスがかかるかを反省させられた。

情動というものがいかに機能するのかはようやく、認知科学や心理学で徐々にメカニズムが解明されているところである。(腸脳相関など)

哲学の知見とそれらの科学の知見が融合されればさらに一歩進んだ考えを生み出すことができるように自分には思われた。

考えることに終わりはなく、、、

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