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日記
曖昧さは重要ではあるが、問いが曖昧になると無意味になる。
質問をごにょごにょしてもまともな回答は返ってこない。
読書をしながら、本を閉じた後、自分は「生きがい」と「生きづらさ」を対比して考えている。
この二つを対比させたとき、法哲学が化学反応における触媒のような役割を果たす。
『問いかける法哲学』によれば、「他者への危害がなければ個人の自由は尊重されるべきだ」という考えが古典的なリベラリズムとされる。ミル『自由論』は個人的に記憶に新しい。
コンプラコンプラとうるさい世の中になっている。
よくも悪くも、パワハラは非難の対象となり、言葉を慎重に選ばなければならない時代となってきた。
配慮が足りなければ〇〇ハラスメントと認定されてしまい、自由が脅かされているように自分は感じる。
宮台真司『14歳からの社会学』にいわせれば、これは「行為功利主義」から「規則功利主義」への移行だと思われる。
もはやルールのみが秩序を可能とする、そんな世の中になりつつある。
こういうことは法哲学的にはどうなのだろうか。自分はそのあたりをちょっと読んでみようと思うに至った。
新宿区長がハロウィンに「来ないで欲しいと思っている」と発言したみたいであるが、このことについていろいろと考えさせられた。
・・・
法律家は問題を解決することが目的なので、問題の「出口」を常に考え、法による「強制」というものとセットで考えるようである。
『問いかける法哲学』によれば、権力の行使(強制)が許されるのは主に「損害賠償請求」「差し止め」「刑事罰」の3つであるという。
また、法は心の問題には介入しないのだという。更生は重要であるが、洗脳という手段で価値観まで浸食するわけにはいかないという事情があるみたいである。その権利は国にはない。
ハロウィンで考えれば、ごみをまき散らしたり、騒音の問題は明らかに他者へ危害を与えていると言える。
ハロウィンにコスプレをして新宿で飲む自由はあるが、騒いで迷惑をかける権利まではない。
そう考えれば新宿区長の言葉は特に問題ないと言える。
ハラスメントの問題はどうなのだろうか。
「法は心の問題には関わらない」という文言が気になった。
ある言葉がどれだけの程度で相手を傷つけるのか。予想可能な場合もあればそうでない場合もあり、傷に値しない場合もあれば、感受性豊かな人には値するときもある。
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本書では「女性専用車両は男性差別なのか」という問いを掘り下げる章があった。
結論としては、責任のありどころが曖昧ということで、議論の余地あり、ということであった。
また、目的に対して手段が妥当なのかどうかもまだ決定的ではないということである。
鉄道会社の、自由な営業活動の権利、女性が安心して移動できる権利、男性が排除されない権利など、複雑な議論は読んでいていろいろと考えさせられた。
次は心と法の関係について読んでみようと思う。この生きづらさを打開できるヒントがなんとなく隠れているように自分には思えたのであった。
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『はらわたが煮えくりかえる: 情動の身体知覚説』
心理学を出ている人はおそらく何回も聞いたであろう「ジェームス・ランゲ説」。
これは、身体変化が先で、そのあとに情動が生まれるという考えである。
この説によれば、気分が高揚するとき、先に鼓動が速くなり、次に高揚する、というのが正しいことになる。
この古典的な見解が『デカルトの誤り』(ちくま文庫)などで知られるアントニオ・ダマシオによって息を吹き返しつつあるのだという。
情動にまつわる一連のプロセスを細分化し、「そもそも情動とはどこの部分を指すのか」という考察で本書はスタートした。
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右に分かれるのか』を読み、道徳心理学に興味を持ってからは、一度感情について整理したいと思うようになった。
意味と価値の使い分けについて、自分は8月頃からいろいろと考えるようになったが、価値を深堀するには情動の考察を抜きには絶対に完結しないと思えたのであった。
ひとつ面白い問いが浮かんだ。
人間を完全に説明できる本があったとして、その文字数は宇宙に存在する原子の数より大きいか小さいか。
壮絶な問いである。
・・・
『生きがいについて (神谷美恵子コレクション)』
ホワイトヘッド「あらゆる知覚は解釈を伴う」の言葉が頭に刻まれた。
「知覚・解釈・価値」この三つは明らかにリンクしている。人生の意味論について考えるときにこの三つ抜きには絶対に進まない。
今日は苦悩が人間に与える効果というものが、偉大なゲーテやプラトンの言葉にも表れているという事を学んだ。
メモ
“苦悩がひとの心の上に及ぼす作用として一般にみとめられるのは、それが反省的思考をうながすという事実が或る。(・・・)人間が真にものを考えるようになるのも、自己にめざめるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。実存哲学のことばを借りれば、ただ「即自」に生きるのではなく、自己にむかいあって「対自」に生きる人間特有の生存様式がここにはじめて確立される。” P136
ゲーテ「人間の意識をつくるのは苦悩である」
(プラトン)”「不幸な時にはできるだけしずかにしているのがいい。そして不満の感情はすべて抑えるほうがいい。というのは、こうした出来事のなかにどれだけ善いものと悪いものがふくまれているか、われわれには評価できないからである。また同時に、短気をおこしても何の助けにもならないからである。」” p149
神谷美恵子によれば、キルケゴール『あれかこれか』は苦悩によって書かれた文学だということであった。
高橋和巳も埴谷雄高に「苦悩教の祖」と言われていたのを記憶している。苦悩なしに文学者高橋和巳は存在し得なかったと言える。
また、自分もこんなに文章を書いているのは苦悩によるものが大きいと自覚している。
好奇心だけではおそらく限界というものがある。
大学生のとき、これから人生が苦しいことが増えるが、それでも価値あるものになるということを分かってほしい、といった先輩からのメッセージを読んだのを記憶している。
当時の自分は全く理解できなかったが、いまようやく少しは理解できるようになった気がする。
問いが不足する人生は、やはりどこか乾燥している。