■株式会社花伝社
公式HP:https://www.kadensha.net/
公式X(旧 Twitter ):https://x.com/kadensha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
日記
大企業が私たちを支配しているだとか、どこかの秘密結社がなにかを企てているだとか、そういった話には全く興味がないが、情報が独り歩きして判断力がまた未発達の若い層に何らかのダメージを与えているのであればそれは阻止しないといけないとは思う。ネットの中傷行為は中年の層が多いと聞いたが、実際には大学生くらいの若い人であったりする。(池袋暴走事件に関する中傷など)
スマホ脳の次に読む本としてはこれが最適なような気がしたので50ページほど読んでみた。
ビョンチョル・ハンは現代の特徴について、パノプティコンのような物理的な監視ではなく、ウイルスのように日常的に浸食する、自発的な監視が顕著だと書いていた。実際に日本では「自粛警察」という現象があったように、情報の受け手が監視役を担っている。
ビョンチョル・ハンは、ハーバーマスの思想を修正しなければならないとも書いていた。それほどに現代社会の変化はスピードが速く、法の整備も、実証研究も、思想も追いつかないのが現状だということがよく分かった。
メモ
“情報というのは、注目され話題になる時間がきわめて短いものだ。情報には時間的な安定性がない。というのも、情報は「サプライズという刺激」に依存したものだからである。その時間的な不安的さのために、情報は知覚を断片化する。” P38
“情報は話題になる時間が短いため、時間をきわめて小さい単位へとばらばらにしてしまう。時間は分解して、その時々の時点の現在がただ連なっただけのものになる。” P38
“知能をはたらかせた利口な行動は、早急な解決と成功を志向する。それゆえ、ルーマンの次の発言は正しい。「情報社会では、人びとの行動はもはや合理的な行動とは言えず、せいぜい利口な行動としか言いようがない」。” P39
ハーバーマスと読書
“ハーバーマスは、民主主義的な公共性の衰退はマスメディアのせいであるとする。読書する公衆とは対照的に、テレビの視聴者は未成年状態に逆戻りする危険にさらされている。” P31
マスメディア ≒ みせかけの公共性
ハーバーマスは『公共性の構造転換』において、一九世紀に市民が「公共性なき専門家」と「消費するだけの大衆」に二分化したと指摘したと本書に書かれていた。
単純化しすぎかもしれないが、学者とそうでない者たち、と区別すれば二分化は確かに可能ではある。
現代においては、議論はソクラテスの時代のような広場で行われず、「論文」などをベースに行われる。
読む者と読まない者で情報量に差が大きく出る。そして、読まない者が大半の民主主義においては、議論が公共性を持たないがゆえに(論文や書籍の閉じた空間でしか行われないという意味で)、なんのために人文系の学者は研究をしているのかとすら思えてしまう。
どれだけ優れた研究が得られようが、人文において、とくに政治に関する分野ではそれが大衆に伝わらない限りは効果が出ない。ゆえに公共性は失われていく、という流れだと自分は解釈した。
・・・
啓蒙にも限界があるとされているが、ある意味、テクノロジーとの闘いでもあるかもしれない。
『スマホ脳』の著者はテクノロジーが人間に適応するべきだと書いていたが、啓蒙の副次的な効果あるいは結果としてテクノロジーが発展しているわけで、ジレンマでもあるかもしれない。
科学が発展するスピードが速すぎて、それを認識し、制度などを整備する人文系の学問が追いつかない。自分はそんな感覚を覚えた。
このような現代において、「公共性」とは何を意味するのか。なかなか定義が難しいのではないだろうか。
自分は一時期このテーマについて考えた時期があったが、アーレントやプラトンが描いた理想図とはかけ離れた時代に突入したと感じる。
じゃあもう科学に頼ればいいじゃないか、という話になっていくかもしれない。
しかし、脳科学に関する最高の頭脳が集まったところで、未来の予測は不可能である。
『スマホ脳』の著者は、そのときの会議が答えよりも問いのほうが多かったと語っていた。
不確実性のなか、ただひたすら時間だけが過ぎていく。
・・・
メモ2
政治的思考(アーレント)は言説f的実践としての民主主義にとって不可欠な構成要素である。
“「私はさまざまな観点から所与の問題を考察することで、つまり不在の人の立場を私の心に現前させ、そうして不在の人をともに再現前化することで意見を形成する」。民主主義の言説に必要なのは構想力であり、それによって私は「私自身の同一性を捨てることなく、世界のなかで現実には私が存在しない場所に身を置き移して、その場所から自分の意見を形成する」ことができる。アーレントによれば、意見の形成にいたる省察とは、他者の立場をともに現前させるかぎりで、「真に言説的」なのである。他者の現前がなければ、私の意見は言説的ではなく、他者を再現前化するものでもなく、自閉的で教条的で独断的である。” P58
ラテン語の「ディスケルスス」・・・・あちこち歩き回る=討議とは(意見が)行ったり来たりするもの
“討議が成り立つための前提は、自分の意見と自分のアイデンティティを切り離すことだ。この討議のための能力をもたない人は、自分の意見に必死にしがみつく。なぜなら、そうしなければ自分のアイデンティティが脅かされるからだ。そのため、自分の意見に必死にしがみつく人に信念を放棄させようと試みたところで、失敗するのは目に見えている。” P60
つづく