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日記
『それをお金で買いますか 市場主義の限界』
・インセンティブは健康を促進しない
“ところが最も有望な研究によってさえ、次のような事実が明らかになっている。お金をもらって悪習を断とうとした喫煙者の九〇パーセント以上がインセンティブがなくなって六カ月後には喫煙を再開してしまうのだ。” P91
・ある行為による罰金の額が、それを払う人間にとって安価であれば、それは罰金ではなくその行為をするための「料金」となる
“罰金が料金にすぎないとすれば、国家が下手な商売に携わっていることになってしまう。” P106
・・・
『哲学のプラグマティズム的転回』
・事実と価値の二分法について、ヒラリー・パットナムの見解
「残酷な」、「思いやりのある」といった表現について
“(・・・)こうした語を”記述的な意味の要素”と”規範的な意味の要素”に分離しようとするが、この試みが上手くいくことはない。” P240
・道徳的客観性(または道徳的実在論)について
“パットナムは、科学と倫理学のあいだに本質的な違いはないと言う。” P243
・・・
今日読んだ三冊は深いところで繋がっている。
まず『問いかける法哲学』を読みダフ屋の規制反対論を再読。
著者が依拠する「可謬主義的市場論」によれば、ダフ屋という存在がいて初めて市場の欠陥に気がつくので、全知全能ではない人間には不可欠だという見方ができるという。
実際、問題は起きて初めてその問題の背景などが浮かび上がるものである。
著者は、需要が供給を上回るときにのみダフ屋は登場し、そうでない場合は来ないと想定しているが、これは妥当である。人気のないコンサートにダフ屋が来たところで、正規の売り場に行った方が安く買える。
お金にしか興味のないダフ屋にとって、転売用にチケットを押さえるのは無駄なコストにしかならないので、押さえる動機がない。
ダフ屋が介入しない販売策を考えようが、結局どんな販売方法にも「差別」が生じることになる。
予約制の場合、予約時間にスタンバイできる時間のある人にとって有利になる。
価格を上げる場合、それを買う余裕のある人しか買えないので貧乏人に対する差別となる。
三つ目は自分で例を考えてみた。仮にくじ引きにした場合、数少ない熱烈なファンと、「とりあえず見てみようかな」くらいの人が多数いたとして、「運」という抗いがたい運命によって「確率」によって熱烈なファンは差別される。どれだけ行きたいと思っても、いけない人が出てくる。
公共の場で無料のコンサートが行われるとして、場所取りなど、時間のある人がない人に差別をすることになる。実際、花火大会などはそうなっている。
チケット制にするとまた支払い能力のない人への差別になる。
公共性は市場の原理と相容れない。なぜなら、市民が平等に、かつ公正にアクセス可能な財として機能しないからである。
・・・
それでも著者がダフ屋を規制すべきでないと考えるのは、ダフ屋が間接的に市場原理の欠点を洗い出ししてくれるからである。
人間は制度を整えたところで、それを運用して時間が経たなければ実際の効果は分からないものである。
ダフ屋がいなくなることによって、制度の運用上の欠点が浮かび上がりにくくなるのだという。
転売ヤーは、平等、公正というものを私たちに問いかける唯一無二の存在となっているのかもしれない。
いわゆる必要悪。
これが可謬主義的市場論の考えなのだという。
それをお金で買いますか、の問いかけも同様である。
どこまで市場の原理にまかせるか、どこまで政府の介入を許すか。
これは深いところで道徳哲学と問いを共有するように思える。
しかしパットナムの思想はなかなか輪郭が見えづらいところである。
今日読んだ箇所の問いかけは深く、これは明日に持ち越したい。
つづく