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その他数冊
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日記
Twitterのフォロワーが4000人を超え、自分の発言・発信の範囲が拡大したことから。自分のツイートに対する冷やかしが久しぶりに来た。
ミル『自由論』に書いてあった通り、確かに自由に言論をぶつけ合うことは、社会全体に与える効果がデメリットよりメリットのほうが上回ることは認める。
先に書いておく。自分は夕方までに考えていたことを夜になって変えた。
当初は、「だからといって好き勝手に書いて言いわけない」と自分は考えていた。
好き勝手言うことは言論の自由の範囲内であるが、迷惑を被る人もいる。そのことを考慮して自分はプラトンでいう「節度」というものがその人間には無いと考えていた。
しかしそのあと執行草舟チャンネルを観て考え方を変えた。
発信する以上は、それを想定しなければならない。また、来て当たり前と考えなければならない。
加えて、自由とは無条件に得られるものではなく、ある種の「闘い」を経て初めて得られる。そのことについて動画を観て自分は考えたのである。
今の時代は誹謗中傷されたくらいで自殺に追い込まれてしまう人間が多数いる。有名人になるとそのリスクは高まる。
これは、究極的には表向き「言論の自由」と言いながらも、実は現代人にはそれを行使する能力があまりに欠けているのではないか、その裏付けではないか、という考えがかすめた。
「反対されて当たり前」「反対意見によって自分の考えを見直す機会になる」
その通りである。
そもそも、ソクラテスの時代も言論とは常に「闘い」であったはずだ。
『国家』、『ゴルギアス』、『パイドロス』の三つはバチバチの空気であったように記憶している。
端的に打たれ弱くなり過ぎている。それは紛れもなく事実である。物理的な喧嘩ができない現代(すぐに警察がかけつける。昔は決闘という手段によって、当事者間のみで解決していたと語られている)、痛みに対する耐性が全くない。これも事実だ。
来るなら来い。返り討ちにしてやるよ。という精神・覚悟が無い人間は発信する才能は無い。
これはいろいろと考えさせられた。SNSは言いたい放題の無秩序であるが、なんでも言えるというのは、北朝鮮や中国、ロシアなどの国を想像してみればすぐわかる。どれだけ天国であるかを自分は今日にいたるまであまり考えてこなかったように思う。
ただ、それなりにストレス負荷がかかることは当然である。
いきなり誹謗中傷に晒されるのは、腹筋がないお腹に重い一撃をくらうようなものだ。
三島由紀夫がなぜ堂々と全共闘のなか東大生と講堂で対峙できたか。
それはいうまでもなく、三島由紀夫が絶対の覚悟、それを支える自信と経験値を持っていたからだ。
・・・
『それをお金で買いますか (ハヤカワ文庫 NF 419)』
午前中はこの本をひたすら読んでいたと記憶している。
「金銭的インセンティブは公共心を締め出す」
名言が出てきた。
核燃料ごみをある町に受け入れるかどうかの時、ほとんどの市民が「大丈夫」と考えていたそうである。
しかし、そこに「補償金」という名のインセンティブが介入すると「大丈夫」と考える人が減ったのだという。国民としての義務感が単なる打算になったことが原因だ。
ここで行動経済学の話に移行。
金銭的インセンティブは共通善への貢献を含む道徳的配慮による価格効果の打ち消しを乗り越えることはできない。とメモを書いておいた。
“しかし、研究から明らかになっているのは、こうした補償は現金よりも公共財という形をとってほうが受け入れやすいということだ。” P170
古典的な経済学では説明できないことがこの頃いろいろと社会心理学などの実験で立証されてきた背景がある。
この義務感(≒美徳)は消耗品のようなものだとアローは考えていた。
“アローはこう書いている。「多くの経済学者と同じく、私は倫理を利己心の代わりにすることに頼りすぎたくない。一般的に言って、倫理的行為を要求するのは、価格システムが破綻する場合にかぎるのが最善だと思う……利他的動機という希少原理を向こう見ずに使い果たしてしまうことは望ましくない」” P184
・・・
『言語はこうして生まれる: 「即興する脳」とジェスチャーゲーム』
昼からはひたすらこの本を読んでいた。
事実や価値といった概念を扱う思考はそもそも言語に依存している。この本はなにかヒントになると考えた。
興味深いトピックが多々あった。
ウィトゲンシュタインの考察はまず一つのヒントを与えてくれた。
「ハンマー!!!!!!」と職人が言ったとき、それは複数の意味がある。
・それをどけろ、の意
・それを取ってこい、の意
・それを拾え、の意
これらに共通するのは、ハンマーという言葉が「目的」を遂行するための機能的な言葉になっていることである。
つまり、目的が意味に先行する。
この考え方は非常に示唆的で、なにかに応用できる予感がした。
メモ
“言語はジェスチャーゲームだという比喩が教えているのは、言語は瓶詰めのメッセージをある人の頭から別の人の頭へと、固定の符号を使って送ることではないということだ。むしろ言語はーーーそれが音声言語であれサイン言語であれーーー手がかりを互いに伝えあうための、豊かで、類推的で、比喩的で、潜在的にきわめて創造的な手段なのだと思わなくてはならない。”P40
コミュニケーションは意味の伝達だと思いがちであるが、本書はその立場を退ける。
むしろ即興の連想ゲームみたいなもので、常に相手がいわんとすること、その言葉によって何をしようとしているのかをお互いに考える作業であり、やはり行為及び言語行為の「目的」がその「意味」に先行するということである。
“この共同作業による持ちつ持たれつのゲームでは、お互いが相手の視点に敏感になること、相手が何を知っていて何を知らないかに注意を払うことが必要でm、そうして初めて互いに適切な手がかりを送れるようになる。” P44-46
・・・
『人と数学のあいだ』
プログラミングの思考法がルービックキューブを最速で完成させるための道具になるという話は面白い。
また、どんな状態でも20手以内には六面を完成できることが証明されているという。
プログラミングの威力を思い知らされた。
これがフェルマーの最終定理を紐解くヒントを与えるという話は、プログラミングを学ぶことの意義を十分に知らしめたと自分には思えた。
・・・
『思索日記 I 〈新装版〉: 1950-1953』
カントは、道徳は自由がなければ存在し得ないと書いていたそうである。
“目的ー手段 これはもともとは道具ー仕事が変質して派生したものであろう。目的は結局、普遍的なものの霧の中に姿を消してしまって、後には手段に変質したーーーどういう仕事のための道具か分からないが身体は魂の手段であり、それゆえ世界の中に目的を有する精神の手段である身体のーーー世界が残る。そこではカントの人間の尊厳の定義、すなわち、他の目的を立てる自己を手段として使ってはならないという禁止ももはや何も伝えることができない。それゆえ納得はできるが、もはや理解はできない。” P74
”目的ー手段 目的・手段の連鎖から逃れるために人間が自己目的とされたまさにそのとき、人間以外のすべての事物、自然全体は手段へと貶められてしまった。その後、世界の冒涜、世界の俗化は償いようがなかった。” P81
しかし自由は自然法則から免れるものでなければならない。
それゆえ倫理は「超越的」であるとされる……を自分は最近また復習した。
ベンサムは「妥協の哲学」
カントは「決意の哲学」。
つづく