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池田晶子『魂とは何か』読了+新・読書日記292(読書日記1632)

    

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日記

2025年は池田晶子の本で始まった。とくに理由はないが、目の前にあった本の中で一番読みたいと思ったから読んだ。

この本のことを池田晶子は「論考」と表現していた。考えながら書く。素晴らしい。

批評は既に書かれていることが決まっている。論文も然り。

ブログの記事を4000回以上書いて分かったのは、書きながら考えることも十分に可能だということである。そして、むしろそこから始まる思索というのも確かに存在するということであった。いっときはそれを小説という形式でやってみたが、長くなればなるほど思索の道筋を追うのは大変になるので、記録として残すにはやはり日記形式が一番しっくりくる。

  

・・・

『魂とは何か』

今日もいつも通り、気になった文章、印象に残った文章をノートに写した。

“善悪の問題は、人がそう思うほど難しいものではじつはない。人がそれを難しいことのように思うのは、道徳と倫理とを混同しているからにすぎない。この語は、別のところで書いているので、簡略に述べるにとどめるけれども、一言で言うと、道徳とは強制であり、倫理とは自由である。” P73

イマヌエル・カントも『道徳形而上学の基礎付け』で倫理を自由の法則と書いていた。

  

“生死の問題は、論理的にのみ考えるべきであって、決して現象的に考えるべきではない。” P82

脳死問題を論理的に考えよ、と池田晶子は繰り返し書いていた。

脳死問題は立岩さんも絶えず批判していた。自分はどうしても臓器を再利用するために生まれた法律だと思えてしまう。

すると「それでも誰かの命が助かるなら善い法律ではないか」と反論がかえってくる。

池田晶子はすかさず反論。「他人を死を望むような人間が臓器を得る資格はない」という内容のことを書いていた。ここに臓器移植にまつわるジレンマというか、パラドックスが潜んでいる。

臓器提供には必ず誰かの死がなければならない。臓器移植を望むということは、誰かの死を望むことでもある。

他人を蹴散らしてでも自らは生き残ってやろうという発想に近い。その是非は問わないが、品が良いとは言えない。

   

別の言い方をすると、生に執着することはあまり善いかまえではないということになる。

ただ、善く生きるためには前提として生存していなければならない。

このパラドックスを池田晶子は嘆いていた。

池田晶子はガンになっても生に執着せず、本当にぽっくり逝ってしまった。もしまだ生存していたら2025年1月1日現在、齢は64である。まだまだ思考が活発に働く歳だ。ヘーゲル『大論理学』の口語版が出ていたかもしれない。

何かを成し遂げることは根本的にはどうでもいいことなのかもしれない。

   

生命倫理についても語っていた。

池田晶子は、生命が無条件で尊いものとされている時点で、そこで論じられることはあらかじめ決まっているといったことを書いていた。これは言うまでもなく、キリスト教由来のヒューマニズムのことだと自分は理解した。執行草舟氏は危険思想と言われるそうだが、池田晶子もわりと同じようなことをいろいろ書いている。

よく生き、よく読み、よく考えた人間はそこにたどり着くのだろう。

  

・・・

“私は(・・・)西洋哲学一般に共通する分析的傾向に、一種のもどかしさを常に覚えていた。むろん、分析性は理解するために有効なひとつの方法ではあるけれど、それは、あらかじめ「全体」を捉え、「全体」を理解するための分析なのだということが自覚されているのでなければ、理解というこの意味を、そもそも為し得ないのではなかろうか。「全体」を忘れ、分析のための分析を重ねるうち、バラバラになってしまった断片群を、さてどうやって元に戻そうかと考えあぐねるといったような知性の用い方に、違和感を覚えていた私にとって、井筒氏の著作は、言ってみれば、(私の)直観の引き金を引くものだった。” P178

  

“本質と価値は、時代によって変わるものではない。それが時代によって変わるものなら、それは本質と価値ではない。したがって、ギリシャとは、とりも直さず現代である。” P187

  

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『脱人間論』

“我々は全員、一生涯、生身の人間として愛と正しさを求めて苦悩するために生きている。” P96

  

“普通の良識ある人が本当に人間的に生きようと思ったら、いまは絶対にヒューマニズムに食われる。(・・・)本来、心などは傷ついた人間が悪い。その傷を乗り越えていくのが人生だった。正しいことはあくまで正しいのだ。それが生命と文明の法則であり、そうできない人間はその事実を弁えて暮らしてきたというのが人間の歴史だ。” P90

    

“作家もすべて自己中心的な作品しか生み出さず、自分の名声や自分の生活だけを思っている。すべてがそうなってしまった。人間は魂のために生き、魂のために死ぬ存在であるにも拘わらず、そうではないものをいまは「人間」と言っている。だからいま「人間」と言われている、その「人間」を捨てるしかない究極のところまできたのだ。” P90

  

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『「憧れ」の思想』

“自分が大切に思う人間の評価を気にするような心情は、憧れを遠くするものだと知る必要がある。つまり、それらの人々からの自分に対する評価ばかりを気にするというのは、自己の幸福を願う考え方なのだ。その意味において、「誰々のために」どうだこうだという選択もまた、自分のための場合がほとんどであり、憧れから遠いものと私は考えている。” P166

  

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『解明される意識』

序盤の思考実験は面白い。

人間の脳を取り出して、それに気づかせないためにあらゆる工夫をしたとて、データが膨大になることからそれは難しいのではないかという内容であった。

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