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日記
『ポスト資本主義の欲望』
つづきを読みすすめた。
ルカーチの本を解説しながら、後半はリオタールのリビドー経済について言及される。
しかし、内容としてはかなり抽象度が高く、なかなか掴めない内容が多い。
カウンターカルチャーに関する言及については、予備知識もあってか、ギリギリ何を言っているかは理解できた。
カウンターカルチャー(=文化左翼)が時を経て資本主義の構造に吸収されていくという話は、いろいろな本でみかける。
今では、それらの残骸は主にファッション(Tシャツのプリントなど)や趣味の領域に閉じ込められている。
そしてもはやメインストリームの文化を解体する力は残っていない。というお話である。
“文化における表現は変化の可能性をもっているので、懐古的なものとして商品化されうる。” P228
“カウンターカルチャーは単に負けなのではなく、資本主義の核となる構造に統合されてしまいました。” P229
この話はジョセフ・ヒース『反逆の神話』や柄谷行人氏の本などに書かれているのを記憶している。
今や芸術は資本主義の傘下にある。
たしかヴァレリーだったか、デュシャンだったか記憶が定かではないが、展示としての芸術に反発を抱いていることを書いている作家がいた。自分もなんとなく共感した覚えがある。今でもそうかもしれない。
ゲルハルト・リヒター展に行ったとき、自分は展示会に行くくらいなら歩きながら哲学をしたいという考えが最後まで抜けきらなかったのか、結局芸術館に足を運ぶのはそれが最初で最後になってしまっている。
・・・
『資本主義問題』
4月頃から資本主義を疑うという、常識外れの思考をつづけている。
哲学が好きな人は矛盾を考えずにはいられない。マルクスは『経済学・哲学草稿』のなかで、労働がどんなことをしようが、根本的に矛盾した性格を持たざるを得ないと書いた。(余剰価値)
その矛盾を括弧に入れて日々の忙しい業務に勤しむことに何か特別な意味はあるのだろうか。
そのような問いから抜け出せなかった自分は、その後カントの義務論やベンサムの功利主義、アマルティア・センの思想やアクセル・ホネットの思想世界へと飛び込むことになる。
本書では仲正教授の『貨幣空間』の書評が掲載されている。
ここを重点的に読んだ。
物象化の定義が自分のなかで曖昧だったので書き写した。
“物象化とは、商品に結晶化される交換関係”はそもそもが「物と物との関係」であるにもかかわらず、そこに労働を介して「人と人との関係」があらわれ、それによってあたかも者が人のごとくふるまうように見えることという。” P83
テオドール・W・アドルノの教授資格論文『キルケゴール』のテーマは「私たちは物象化の呪縛から逃げられることは可能か」という問いであったと松岡正剛氏は述べている。
そしてアドルノは美と商品の弁証法的に止揚していくしかないと考えたそうである。
アドルノの文章が難解で、どういう問題意識をもって文章を書いているのか今までつかめなかったが、本書をきっかけに、『ミニマ・モラリア』を再読してみようと思うに至った。
つづく