「ニッポンのコトバ。」の章はいろいろと考えさせられた。
音読みと訓読みに加え、語尾を下げたり下げなかったりすることで意味が変わる言葉が日本語には沢山ある。
日本はあらゆる国の文化を取り入れ吸収していく。この様子を押井守が「編集」と呼んでいたがまさにそれである。
物事が編集されていき、部分の総和が全体以上になる。
小室直樹は日本人の出鱈目なところを批判していたが(例えば、江戸時代の踏み絵はキリスト教の教えに背くものではないが、日本人は勘違いしてそれがNGだと思い込んでいた)、本書を読んでいくうちに、今まで気がつかなかった、日本の出鱈目なりの意地の強さというものを感じた。
日本語の編集的な能力を、英語圏は持ち合わせていないのである。
言葉の乱れとはよく言うが、可塑性ありきのものなのかもしれない。
海外の言語の構造がどうなっているかは分からないが、日本ほど言葉が遊ばれ、言葉によって傷ついたりする国はもしかすればないかもしれない。
海外の人からすれば、日本語の習得難易度はロシア語やアラビア語を上回ると、どこかの本で読んだ記憶もある。
今日一番書き残しておきたいことはもうひとつある。
マルクスの「存在(≒社会)が意識を規定する」という命題はどのくらい真実に近いか。
思うに、人間の意識や行動、経済活動を取り扱う分野は心理学を中心として後は認知科学、行動科学、経済学などが挙げられるが、意外と言語学の知見も重要なのではないかとも思ったりする。
言語レベルでの行動を分析する研究はどこまで進んでいるか分かりかねる。ただ、考えることは面白そうだ。
物事を白黒ハッキリさせる文化のある欧米とそうでない日本。(あくまで全体の傾向として)
それはどこまで言語の構造が関与しているのか?
それはどこまで文法上の制約と関係しているか?
このことについて書かれている本があってもおかしくはない。どこかにあるはずだ。
見つけたら読んでみようと思う。