ラボ読書梟 (旧 はてなブログ大学文学部)

新・読書日記16

         荒谷大輔『贈与経済2.0』翔泳社 (2024)

 

      小室直樹『新装版 危機の構造』ダイヤモンド社 (2022)

  

つづきを読み進めた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/04/19/%e6%96%b0%e3%83%bb%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%9815/

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日記

『贈与経済2.0』

100ページ弱読み進めた。

本書の流れとしては、前半に資本主義の構造について歴史をふり返りながら整理し、その後贈与経済について論考が進むかたちとなっていた。内容を少し整理して感想などを書いていきたい。(事実と違うことを書かないように、最小限にとどめたい)

 

・神の権威の失墜の果てに

『デカルトからベイトソンへ』にも書かれているように、近代化は宗教との別れでもあった。科学によって今までの魔術から解き放たれた(脱魔術化)。

そうなると善悪の判断はどこに向かうのか?つまり、道徳を改めて定める必要が出てきた。

そこでアダム・スミスの登場。

“そうした中で”スミスは、ある画期的な一歩を踏み出します。「共感はそれ自体快楽である」という議論を展開することで、神に代わる道徳の根拠を得ようとしたのでした。” P23

  

道徳の基礎に「共感」を据えることにはメリットがあった。

“このスミスの道徳論には、明確なメリットがあります。それは社会的な善悪を完全にボトムアップで決められるという点です。” P24

  

とはいえ、限界があることをスミスは認識していた。晩年にはそのことを改訂というかたちで書き直している。

本書では流行に流される人物が晩年に何を思うのか、そのことの悲惨さをスミスが推測していた例が提示されていた。

 

スミスは「奴隷を開放したほうが生産的である」というメッセージを伝えたかったのかもしれない。 

己の欲望に任せたほうが「神のみえざる手」によってうまくいくとスミスは考えていた。

どころがどっこい。そうはならなかった。

19世紀のイギリスにおける労働環境はあまりに悲惨だった。4歳から働かせられる人もいた。資本家にとっては労働者のことなんてどうでもよかったということだろうか。そのような背景はマルクスの思想を生み出す素地を用意した。 

  

「反資本主義」はその後マルクス⇒スターリニズム、ファシズム(全体主義)といった具合に出現していくことになった。

  

・・・

・二つの社会契約論

ジョン・ロックは私有物の不可侵性を訴えながらも、恣意性が強く、客観性に欠けていた。

それに対し、ルソーは「一般意志」に基づいた社会契約論を提唱。

本書の内容に即せば、一般意志とは「自分の意志」も「社会全体の意志」も等しい。社会の意志、世論が自分の意志と一致しているという状態である。そこに「損」という概念は存在しない。私有物の不可侵性という点ではお互い同じことを述べたが、一般意志を導入した点ではロックと異なる。

 

・モンロー主義

初めて聞いた言葉だったのでメモをした。

ざっくりいうと「ヨーロッパはアメリカに介入しないでください。アメリカも介入しませんから」。

しかし実質的にモンロー主義はアメリカがアメリカ大陸全体を支配することを許してしまう。

  

・なぜアメリカは植民地を開放していったのか

⇒三回目の「反資本主義」が現れないため、という著者の推測は考えさせられた。

  

・・・

感想

書いてみると、改めて、断片的にしか本書の内容を吸収できていないことにがっくりする。

理想的には読み終わってからすぎにアウトプットしておくのがいいのかもしれないが、それだと読書が完全に「作業」になってしまい、楽しさが半減しかねない。このせめぎ合いに多少悩まされる。

贈与経済について多少かじったが、まだ理解が及んでいないので翌日以降に感想を書いていきたい。

  

本書を読んで、福祉国家への流れがざっくりとつかめた気はしている。自己責任論者は社会保障の恩恵を受ける層に対して「社会のお荷物」や「国の家畜」だと、あまりに無慈悲な発言をすることが少なくないが、むしろ「生かさず殺さず」で労働者を限界まで酷使し、社会的不安を招いた資本家たちにその責任があるかもしれないと思えた。

 

メモ

“「戦後民主主義」として私たちが知っているものは、対立する2つの理念が調停不可能なかたちで同居する極めて特殊な政治形態と考える必要があります。その矛盾が明確に現れているのは、議会政治における対話不可能性でしょう。” P74

⇒政治家は国を動かすことだけが仕事ではなく、自分の票(支持者)を集めなければならない。

・・・

『新装版 危機の構造』

日本人の政治家はよく「無責任」と言われる。

その構造について小室直樹は語る。ここはかなり重要だと感じたので書き写した。

“このようにして、マスコミの介在を別にすれば、機能集団としての共同体は「その中に生まれ、生活し、やがて死んでゆく」中世的共同体と著しく類似した社会科学的性質を帯びるにいたる。この社会学的性格による結果は、機能集団としての共同体が人間の作為の産物であることが忘れられ、自然現象のごとく所与とみなされることである。内外が峻別され、共同体が各成員のパースナリティを吸収しつくすことにより、共同体独自のサブカルチャーはますます深化し、成員のパースナリティ構造までサブカルチャーに従って再編されることになる。かくして、外部との交通は、マスコミの介在により、外部的には(overtly)頻繁でありながら、その内実においては(covertly)ますます無意味となる。このようにして、外部に対する鋭い関心を喪失するのと比例して、成員の主要関心は共同体内部にのみ集中し、共同体構造は、天然現象のごとく不動のものにみえてくる。共同体における慣行、規範、前例などは意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるものごとく無批判の遵守が要求される。” P59

⇒(慣行、前例、規範などに対する)「無批判の遵守」について、小室直樹は「批判拒否症的体質」と呼んだ。

“このような社会学的背景において官僚的思考様式は、直ちに技術信仰に結びつく。” P60

日本が勝てない戦争に突っ込んだ原因のひとつが、この二つの文章に集約されている感覚を覚えた。

信仰さえしていればよい、というある種の宗教である。山本七平にいわせれば「日本教」である。

責任という概念については、宗教社会学的には神との契約の話につながっていくと思うが、つまり日本の無責任体制というものは、根本的にはアノミーに原因がある。「無責任」は、共同体がその共同体内部に対する批判精神の欠如を構造に持つゆえに発生する。なるほど。

 

小室直樹がつづけて、日本人の思考様式について、その特徴を二つ挙げた。

・情緒倫理

・人格と意見を分離して考えられない思考

 

“それゆえ、日本人一般の感情に逆らうような主張は、それだけで悪とされ、しかも非難はその主張に対するもののみにとどまらず、かかる主張をなす人の人格にまで及ぶ。” P129

クリティカル・シンキングにおいて、人格に対する攻撃は誤謬のひとつとして挙げられている。

Twitterで言論が成立しない理由のひとつとして、この誤謬が挙げられることは言うまでもない。

 

・・・

次に、「経済学=実態にそぐわない=非現実的」と捉える短絡さに小室直樹は注意を喚起した。ここは謙虚に、自戒を込めてゆっくり書き写した。

“(・・・)現代経済学の非現実性は、その批判者に対してだけではなく、その創始者にとっても明白なことなのである。しかし、ここで注意しなければならないことは、この「非現実的」である、ということだけでは、現代経済学の価値は少しもそこなわれることはない、ということである。その理由は、科学とはかくのごときものであるからである。すなわち、科学的方法の特徴は、森羅万象のすべてを、ありのままに把握するのではなく、その一部分を強調して抽象し、他の部分を無視して捨像することにあるのである。” P147

 

今日は「アノミー」と日本の「無責任体制」について少し理解が進んだように思う。

政治家(全員とは言わない)が責任を取らないのは、そもそも公約を破っても罰せられないことにあるのだろうが、その背景には、精神構造のなかにアノミーがあるということを念頭に置いて、あす以降も続きを読んでいきたい。

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