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新・読書日記39

コルム・トビーン『マジシャン: トーマス・マンの人と芸術』論創社(2024)

■有限会社論創社

公式HP:https://ronso.co.jp/

公式(旧 Twitter):https://twitter.com/ronsosha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

渡辺茂『動物に「心」は必要か 増補改訂版: 擬人主義に立ち向かう』東京大学出版会(2023)

■一般財団法人東京大学出版会

公式HP:https://www.utp.or.jp/

公式(旧 Twitter):https://twitter.com/UT_Press?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

またメルカリで「こちらは初版ですか?」とコメントが来た。

メルカリを3年ほどやっているが、10件以上はあっただろうか。

最初は礼儀として、なんでも要望に応えてきた。

しかし初版でないと分かると購入を控える人が続出することに気がついた私は、何か裏があると考えるようになった。

 

私はそもそも読みたい本が初版かどうか全く眼中にないので、当初は理解できなかったが、どうやらお金のためだということが見えてきた。

私は質問に対して率直に聞いた。

「よろしければ、初版をお求めになる理由をお聞かせいただけないでしょうか」と聞いた。

すると、

「改訂を重ねると内容が若干変わることもあり、初版は訂正前のものが見られる」といった答えが返ってきた。

たしかにそれはそれで、何かしらの問題意識を持ちながら文献にあたり、厳密性を求める人であれば理由としては妥当であると思えた。

しかし自分は、それはただの建前としか思えなかった。

だから今日、敢えてひねった質問をした次第だ。

「この本が初版だったとして、どのような知見が得られますか」と返事をすることにした。

すると、

「初版には希少性があるので」といった答えが返ってきた。

これが本音だろう。

  

今日一日を振り返ると、この理由を自分は認めることができなかった。

初版を求める人間は「初版であればそれを読む」という、条件付きの読書家である。

結局購入しないままどっかにいってしまったが、仮に第二版だったとしたら購入しないのは、約3000冊をメルカリで売った私の経験からすれば目に見えている。

条件付き読書」を自分はどうしても認めることができない。

可能な限り、本は投資の対象としてではなく、人間性を高める人類の遺産であって欲しいと私は願うからである。

 

自分は資本主義を疑うという、常識外れの思考を4月からつづけてきた。

今日のこの出来事は、資本主義が人間を退化させるひとつの例として捉えることができるようにみえた。

「手段が目的化する」

自分は、どの例にも当てはまるように、抽象的にその定式化ができないか検討を試みた。

 

良い名称が浮かばなかったが、ある程度定式化できた。

エントロピー増大の法則のように、手段が目的化する力学がこの世界には存在する。

この目的化については、二つの種類があるように思われた。

・投資的目的化

・消費的目的化

 

もう一度おさらいすると、初版を求める人間は「初版であればそれを読む」ということ。

これは「投資的目的化」といえる。

読書の目的は何か?読んで考えたり、読むこと自体が価値であり、目的である行為である。

初版好きは明らかに読むこと自体が目的とは言えない。

本が投資の対象として物象化していることは自明である。

 

次に、消費的目的化について説明する。

社員旅行はレクリエーションとして捉えることができる。つまりコミュニケーションを円滑にし、業務が捗る効果が期待できるわけである。

しかし慣例化すると、旅行に行くことが目的となってしまうことも少なくない。

つまり旅行という体験を「消費」する。

これが社員旅行という「手段」が目的に変化する、「消費的目的化」である。

 

自分はこの「手段の目的化」という現象に、ある程度の一般性を持たせることができたように思う。

「消費的目的化」は資本主義に限らないと言えるが、「投資的目的化」は明らかに資本主義の副作用と言える。

したがって、この初版好きの行動は資本主義によって人間が退化した良い例だと自分には思われたのであった。

  

・・・

『マジシャン: トーマス・マンの人と芸術』

岩波文庫『魔の山(下)』の最終章手前で自分は挫折してしまった。

挫折したというよりかは、当時はヒューマニズムについて勉強したかったので、その一環として自分は読んでいた。

ある程度ヒューマニズムの輪郭が見えたから「もういいや」と思ってしまったのかもしれない。

 

本書はトーマス・マンの半生を描いた小説となっている。

『魔の山』をもう一度読み直そうと思い始めたときに偶然本屋で見かけた。

今日は病院で待ち時間が長かったので、ちょうどいいタイミングだと思い、地道に読み進めることにした。

 

マンが10代から詩をつくっては親友に渡して読ませていたことが書かれていた。

若くして詩を書くというのは、なんとロマンティストなのだろうか。自分はただただ妄想にふける程度のことしかしていない。

文才ある人は早熟な人が多いというイメージがどうしてもつきまとう。

今日はマンが幼いころから高校生くらいまでの話を読んでいったん閉じた。

   

・・・

『動物に「心」は必要か 増補改訂版: 擬人主義に立ち向かう』

自分は動物愛好家でもなければ、環境の活動家でもない。

しかし、本書はいろいろな読み方ができるように思う。というのも、ダーウィンはよくも悪くも、様々な影響を社会に与えてきたからである。自分は人間中心主義というものをもう少し考えてみようと思い、真面目な動機というよりかは、単なる好奇心で読んでみた。

本書では「ダーウィン産業」という言葉まである。ダーウィンは現代にもなお、影響を与え続けている。恋愛工学なるもの、優生思想も、元をたどればダーウィンだ。(勿論、極度にねじ曲がった解釈をされてはいるが)

しかし「自然選択」だけでは説明しきれない現象がある。(ダーウィンの悪夢と呼ばれる)

カント経由で美学にも興味を持った自分は、分野横断的に様々なトピックと関連付けながら本書を楽しく読めると期待。ダーウィンの悪夢は「性選択」で埋め合わせようとしているみたいではあるが、まだまだ議論に決着がつかないことが多い生物学は、いろいろな意味で刺激的な分野である。

 

今日は[擬人主義-擬鼠主義]の二項対立について学んだ。

前者はヒトから動物の行動を推論する立場、後者は動物の実験からヒトの行動を推論する立場にある。

ダーウィンは前者の擬人主義とされる。

本書はそれを批判的に吟味していく内容となっている。

 

擬人主義はほぼ「人間中心主義」である。

しかし、人間中心主義は様々なバイアスを生み出す原因ともなり得る。

例えば、顔が猫に似ているからといって、性格が猫に似るとは限らない。

そのような骨相学は、今では似非科学だと分かり、過去の産物となっている。

現代の常識もいずれ似非科学とみなされる可能性は十分にある。

 

本書を読みながらいろいろなことを吸収していきたいと思う。

 

メモ

ラマルクの言葉

“「人類は自然の産物のうち最も優れたものであるが、先見の明のない利己主義に陥り、自らの種を絶滅させることに精を出している」” P35

 

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