ラボ読書梟 (旧 はてなブログ大学文学部)

新・読書日記40

ピーター・シンガー『動物の解放 改訂版』人文書院(2011)

■株式会社人文書院

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渡辺茂『動物に「心」は必要か 増補改訂版: 擬人主義に立ち向かう』東京大学出版会(2023)

■一般財団法人東京大学出版会

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ジェニー・オデル『何もしない』ハヤカワ文庫(2023)

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日記

『動物の解放 改訂版』

60ページほど読んだ。

自分はヴィーガンになるつもりは今のところないが、ピーター・シンガーの別の本(ちくま学芸文庫に出ているもの)が面白かったことから、読んでみることにした。

今更ながら、自分とは対照的な意見を持っている人の本というものは、往々にして得られる知見や、問いが多いと感じた。

自分はアメリカや日本におけるヴィーガンの活動家たちが、ファーストフード店の入り口で街宣をしていたり、小学校の入り口近くで「現実を知ってください」と、現場の写真を子供たちに見せつけたりと、様々な主張をしていることを知っている。

また、AbemaTVで自分はヴィーガンと議論をするものを観たり、切り抜き動画を観たり、世間の反応というものを観たりし、今日におけるヴィーガンの立ち位置というものをある程度把握しているつもりではいた。

  

最後まで読んでみなければ書けないことは多いが、今日の段階では、ヴィーガンの活動家たちが事実無根の主張をしているだとか、非現実的なことしか考えていないと鼻で笑うのは避けなければならないと思うに至った。

AbemaTVの議論は様々な観点から突っ込みどころは多いが、「動物は苦しんでいます」「いや、そんなの貴方分からないでしょ」といった場面に関しては、「動物は苦しんでいます」という主張のほうが科学的にはほぼ正しいのではないかと自分は見ている。

ルネ・デカルトは「そんなの分からないでしょ」以前に、「動物は機械だ」と考えていたと書かれている。

 

しかしながらデカルトの考え方が心身二元論に依拠しており、現代の科学水準ではこの見方は誤りだというのが通説となっている。その証拠として、日本では認知行動療法(通称:CBT Cognitive Behavioral Therapy)が診療報酬の対象となっている。この心理療法は心と身体は密接にリンクしていると考える立場にある。科学的根拠にやや欠ける精神分析に関しては、現状の日本では完全に自己負担となっている。CBTに限っては国が認めている科学的な理論だと言える。

  

人間だけが特別だ、という主張も分からなくはないが、5感に関してはむしろ劣っている。嗅覚は犬のほうが明らかに鋭く、視力は鳥には叶わない。耳についても、コウモリほどの高音を拾えない。また、感情的になればなるほど人間でさえも非言語的行為(ジェスチャー、握手など)に傾く傾向があると本書に書かれている。

つまり「苦しい」という感覚は動物には認知できず、人間にしか認知し得ないと考えるのはむしろ非科学的なのである。この点を何も考えずヴィーガンと議論するのは無意味だったかもしれない。

 

ピーター・シンガーは、ベンサムの言葉を引用し、苦しむことができる生き物は「利害」を持つことができ、ゆえに人間中心的な考えを見直す余地があることを語る。石や水などは苦しむことはできないと考えるのが妥当である。よって、石や水と利害関係を持つことはできない。しかし動物はそうではなく、利害関係を持っているとピーター・シンガーは論述していくわけであるが、見事にヴィーガンに対する、想定される攻撃から防御できているように読んでいて感じた。

 

(ベンサムの言葉)“人間以外の動物たちが、暴政によっておしとどめることのできない諸権利を獲得する時がいつかくるかもしれない。(・・・)問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである。” P28

  

ネットのコメントも多様ではあるが、おおむね自分で何も調べず、ただ権威の力に便乗している無知な大衆だということが自分は見て取れた。ネット番組も前提知識の要らない議論と、必要な議論の住み分けをしていくべきだ。でなければ得られる知見がどこか偏っていくように思う。(権威ある人の意見に同調していくかもしれない)

 

・・・

『何もしない』

「狂ったソクラテス」こと、ディオゲネスの話はやはり何度読んでも面白い。美術評論家のトーマス・マクェヴィリーが以下のように語る。

“「(ディオゲネスの)全体的なテーマは、慣れ親しんだあらゆる価値観には、人生を明瞭にするどころか、かえってわかりにくくさせる自動的な働きがあるとして、それらを瞬時にすっかり反転させることだった」” P149

 

世の中、アフォーダンスだの、ナッジだのと、環境がいかに人間の行動を規定するかが論じられているが、ディオゲネスにとってそんなものは関係ないのである。

都会にはあらゆる惰性が存在する。何もしたくない者にとって、時にその惰性は暴力的なものとなる。

エスカレーターに乗ると、片道開けなければならない空気を何とかしてほしいと自分はよく思う。他の人のそう思うことはないだろうか。あるはずである。

集団心理には惰性が隠れている。エスカレーターのように、「そうしなければならない」かのような、強制が存在するのである。強制こそ典型的な暴力である。(ここでは弱い暴力としておく)

  

そしてまた、思考停止という名の惰性も世の中に溢れている。惰性を解体する運動としてのパフォーマンス。そういう催しは、自分は嫌いではない。

  

・・・

『動物に「心」は必要か 増補改訂版: 擬人主義に立ち向かう』

情動は単に随伴的な現象なのか。

動物に心は必要か、というタイトルは「人間にとって心とはなにか」を超えて「私とはなにか」といった形而上の問いにまで高められる。

哲学者ジョン・サールの「中国語の部屋」という思考実験のように、マニュアル通りに動くことはできるが中国語は読めないし理解できないということが、ハンスという馬によって明かされた。

だからといって動物はピーター・シンガーの言うように、デカルト的な「有機体としての機械」とみなすのはおかしい。

  

著者は内観法と現象学の違いを説明した。

これはいろいろと参考になった。現象学は著者にとって「自由な心象の質的表現」ということであった。

やや意訳すれば、心の状態を文学的に語るということだろう。

内観法は文学的表現にこだわることはほぼない。なるべくわかりやすく、自己観察の記録する。

  

他にも数冊読み、今日は頭にいろいろと詰めすぎてしまったかもしれない。

つづく

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